全国の学校での定期的指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 04:38 UTC 版)
「斎藤喜博」の記事における「全国の学校での定期的指導」の解説
定年前から神戸御影小、定年後は広島県大田小、室蘭啓明高、青森三本木中、呉鍋小、長崎森山東小、石川東陵小等々、斎藤の教育に共鳴する学校にそれぞれ毎年3回ほど定期的に訪れて教師と子どもたちを指導し、その成果を発表するために公開研究会を開いた。特に御影小、大田小、啓明高などは指導に入った年数も長く、公開研究会の回数はそれぞれ8回、6回、5回を数えた。これらの学校の当時の校長の回想記が、斎藤の個人雑誌『開く』30集(最終号、82年)や『総合教育技術』1981年10月号(特集=斎藤喜博ーその人と仕事に学ぶ)に載っている。また晩年には、全国の数多くの小中学校を「教育行脚」して回り、国語、合唱、体育(跳び箱、マット、行進)の授業を行い、教師と子どもたちを指導した。教育行脚での授業記録は『わたしの授業』全5巻(1977-82年、一莖書房)に収められている。 また、佐賀大学、大分大学、岡山大学、都留文科大学等々の非常勤講師を務め、晩年には宮城教育大学の林竹二学長に要請されて同大授業分析センター教授に就任し、同大の定年まで半年間だったが横須賀薫教授を扶けて教授学演習を担当し、教師養成教育に努めた。師範出の小学校教師が大学教授になるなどというのは、当時としてはは全く画期的なことであった。 このように斎藤の教育活動は、定年後も東奔西走、多忙を極めた。
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