信託併営と国際化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:02 UTC 版)
昭和30年代に入り、信託の専業主義の考え方による大蔵省の信託分離の勧めにもかかわらず、大和銀行は信託併営を維持した。これは、当時の頭取寺尾威夫が「信託併営は、金融機関の大衆化、機能の総合化にマッチし、顧客に幅広いサービスが提供できるため時代の要請に合致している」と強硬に主張し信託分離化も頑なに拒み、また、関西財界の支持を受けた事も追い風となった。結果、都市銀行の中で唯一信託兼営を守り通したが、これが為に大蔵省から睨まれ、「他都銀と同じスタートラインにない」として、新規出店で認可を出し渋るなど、不利な扱いを受けたとも言われている。1962年4月には、企業年金制度(正確には適格退職年金制度)が発足したが、大和銀行は直ちにこの取扱いを開始、同年8月には年金信託部を設置、企業年金のリーディングバンクとして、また一貫して信託業界首位の座を堅持することになる。 貿易・資本の自由化が推進され、日本経済の国際化が進捗する中、国際業務では1956年にニューヨーク、1958年にはロンドンと、国際金融の2大中心地に相次いで駐在員事務所を設置した。1988年にレイニア・インターナショナル銀行香港地区9店の営業権を譲り受け、当時、在香邦銀最大規模の店舗(10店)を展開、また、1990年には、イギリス・ロイズ銀行のアメリカ拠点を買収し、こちらも、当時、在米邦銀最大規模の店舗(17店)を有し、最盛期には大和銀行の純利益3割を稼ぎ出すにいたる。 機械化、事務効率化の面では、1972年8月、キャッシュディスペンサー(CD、現金自動支払機)1号機を設置し、また、1973年8月には第1次オンラインシステムが完成した。これが、大和銀行におけるエレクトロニックバンキングの幕開けとなった。このオンラインシステムは、1981年の第2次オンラインシステムを経て、1993年に新オンラインシステム・ニュートンに移行した。 創立50周年に当たる1968年9月には総資金量1兆2,000億円を超し、3年後の1971年末には2兆円の大台を突破するに至った。
※この「信託併営と国際化」の解説は、「大和銀行」の解説の一部です。
「信託併営と国際化」を含む「大和銀行」の記事については、「大和銀行」の概要を参照ください。
- 信託併営と国際化のページへのリンク