信託併営 野村銀行 自主独往
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「大和銀行」の記事における「信託併営 野村銀行 自主独往」の解説
やがて、証券部門が急成長し、1925年12月には証券部を野村證券株式会社として分離する。 1927年1月、青森に存在していた野村銀行に対し商号変更を要求、それに応じた青森の野村銀行は立五一銀行へ商号変更。これにより野村銀行を名乗れるようになる。大阪野村銀行は野村銀行と名を改め、野村財閥の中核として純然たる商業銀行への道を歩む事となる。 この年から深刻な昭和金融恐慌が進行し、多くの名門銀行が姿を消す中で、1927年12月と1928年5月に淡河銀行、1928年9月に藤田銀行、1929年5月に加島銀行の各営業権の一部を譲り受け、業容を拡大、十五大財閥の1つに発展していく。 金融恐慌後の1929年に、野村銀行は大阪府本金庫事務を受託した。これは業務の非効率性から受託に消極的な銀行が多かったなかで、野村徳七が金庫事務の公共性と銀行の信用力の増大に着目したもので、大和銀行-現りそな銀行は現在も単独で大阪府指定金融機関の役割を果たしている。 金融恐慌を契機に急激に高まった銀行の合同整理の中で、1933年には大阪では他の有力3行の合同で三和銀行が発足したが、野村銀行自体は自主独往の路線を堅持。 1944年8月、野村信託株式会社を合併して、いわゆる兼営法に基づく日本で初めての信託併営行となった。
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