信空長老体制の強化
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叡尊十三回忌の翌年である乾元2年(1303年)7月12日には、真言律宗において叡尊と並ぶ最大の名僧である忍性が入滅した。忍性は、真言律宗を主に人道的側面から支え、学問も名誉も求めず、ひたすら貧民救済に捧げた生涯だった。忍性の人道支援活動は、のちには後醍醐天皇からも崇敬を受け、生ける菩薩として「忍性菩薩」の諡号を贈られることになる。 真言律宗を築き上げた高僧たちが世を去るのと入れ替わるようにして、第2世長老の信空を中心とする世代交替が行われていた。これを遡る正安4年(1302年)1月21日には、後宇多上皇(後醍醐の父)から信空へ、四天王寺で経を読むように院宣(上皇の私的な命令)が下るなど、叡尊に引き続き大覚寺統(後醍醐らの皇統)からの支援が保証された。信空は忍性とは同郷で、同じ額安寺(奈良県大和郡山市額田部寺町)周辺の出身といい、信空が真言律宗を継いだのも、忍性からの推挙があったからとされる。嘉元3年(1305年)、信空は兄弟子であり恩人でもある忍性に盛大な供養を行い、額安寺に五輪塔を安置した。 嘉元4年(1306年)9月上旬、信空は門弟60余人を引き連れて、備後国尾道(広島県尾道市)の浄土寺へ向かった(「定証起請文」)。浄土寺は瀬戸内海交通の要衝に位置する寺院で、西大寺の末寺としては、西国では最大規模だった。浄土寺は一時期荒廃していたのが、律僧の定証によって復興が図られ、ついに復興最大の象徴である金堂が完成したので、その記念として長老である信空が招かれたのである。それと同時に、この大規模な訪問は、真言律宗の繁栄ぶりを世間に示す、デモンストレーションの目的もあったかと思われる。 内田啓一によれば、のち、浄土寺の僧には、文観から付法を受けた(師の一人を文観とした)者が多く現れるため、若き文観もこのとき信空に同行しており、浄土寺との繋がりを得たのではないか、という。ただし次節(#播磨国常楽寺時代)で述べるように、時期的に文観はこのころ播磨国(兵庫県)で独立した長老として活動し、信空のもとにはいなかった可能性もある。その場合でも、播磨は備後への通り道であり、文観が浄土寺など瀬戸内海方面での真言律宗布教に寄与したことは疑いない。
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