信空長老体制の強化とは? わかりやすく解説

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信空長老体制の強化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「信空長老体制の強化」の解説

叡尊十三回忌翌年である乾元2年1303年7月12日には、真言律宗において叡尊と並ぶ最大名僧である忍性入滅した忍性は、真言律宗を主に人道的側面から支え学問も名誉も求めずひたすら貧民救済捧げた生涯だった。忍性人道支援活動は、のちには後醍醐天皇からも崇敬を受け、生ける菩薩として「忍性菩薩」の諡号贈られることになる。 真言律宗築き上げた高僧たちが世を去るのと入れ替わるようにして、第2世長老信空中心とする世代交替が行われていた。これを遡る正安4年1302年1月21日には、後宇多上皇後醍醐の父)から信空へ、四天王寺で経を読むように院宣上皇私的な命令)が下るなど、叡尊引き続き大覚寺統後醍醐らの皇統)からの支援保証された。信空忍性とは同郷で、同じ額安寺奈良県大和郡山市額田部寺町周辺出身といい、信空真言律宗継いだのも、忍性からの推挙あったかとされる嘉元3年1305年)、信空兄弟子であり恩人でもある忍性盛大な供養行い額安寺五輪塔安置した嘉元4年1306年9月上旬信空門弟60余人引き連れて備後国尾道広島県尾道市)の浄土寺向かった(「定証起請文」)。浄土寺瀬戸内海交通要衝位置する寺院で、西大寺末寺としては、西国では最大規模だった。浄土寺一時期荒廃していたのが、律僧の定証によって復興図られ、ついに復興最大象徴である金堂完成したので、その記念として長老である信空招かれのである。それと同時に、この大規模な訪問は、真言律宗繁栄ぶりを世間に示す、デモンストレーション目的あったか思われる内田啓一によれば、のち、浄土寺の僧には、文観から付法受けた(師の一人文観とした)者が多く現れるため、若き文観もこのとき信空同行しており、浄土寺との繋がり得たではないか、という。ただし次節(#播磨国常楽寺時代)で述べるように、時期的に文観このころ播磨国兵庫県)で独立した長老として活動し信空のもとにはいなかった可能性もある。その場でも、播磨備後への通り道であり、文観浄土寺など瀬戸内海方面での真言律宗布教寄与したことは疑いない。

※この「信空長老体制の強化」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「信空長老体制の強化」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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