信直との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:46 UTC 版)
ところが、元亀元年(1570年)に実子・晴継が誕生すると、晴政は養子である信直を疎んじるようになる。 元亀2年(1571年)、同じ南部氏族の大浦為信(後の津軽為信)が、信直の実父・石川高信を突如討ち取ったのを皮切りに、周りの南部系の豪族を次々と滅ぼし、最終的には津軽、外ヶ浜、糠部の一部を占領した(為信は、同族の領土を全て自分の物にしようと目論んでいたという)。しかし、晴政は信直との争いにより自ら手を出すことをせず、差し向けた討伐軍も打ち破られてしまったという。 信直との確執は続き、『八戸家伝記』によれば元亀3年(1572年)に、川守田村の毘沙門堂へ参拝した信直に対し、自ら手勢を率いて襲撃。信直は鉄砲で狙撃し晴政を落馬させ、またそれを介抱していた九戸実親(晴政の次女の婿)にも撃ち当てたという。一触即発の事態に陥るかと思われたが、天正4年(1576年)、信直の正室(晴政の長女)が早世すると、身の危険を感じた信直は晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もり、刺客の脅威から逃れるため北信愛の剣吉城や八戸政栄の根城などに身を隠したという。晴政はなおも信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび九戸氏の連衡と、信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。 天正10年(1582年)、病死。享年66。死後、家督は嫡男の南部晴継が継いだ。
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