作曲のスタイルと発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:41 UTC 版)
「エリザベス・ラッチェンス」の記事における「作曲のスタイルと発展」の解説
イギリスにアルノルト・シェーンベルクの十二音技法をもたらしたのはエリザベスだと言われている(エリザベス独自の非常に個人的な解釈ではあったが)。エリザベスはグスタフ・マーラーなどの「度を過ぎた音」が不満で、その代わりに希薄なテクスチュアを使うことを選び、エリザベス独特のセリエリズムを発展させた。エリザベスが最初に十二音列を使ったのは、『9楽器のための室内協奏曲第1番』(1939年/1940年)で、アントン・ヴェーベルンの『協奏曲 作品24』(1934年)と比較された。もっともそれ以前のエリザベスは、セリーの表現形式とは反対の技法を使っていて、昔のイギリス音楽、とくにヘンリー・パーセルの中に見付けた前例にインスパイアされたとも主張していた。 実はエリザベスは1933年の時点で、バリトン歌手のイアン・ハーバート・キャンベル・グレニーと結婚していて、子供も3人いた。しかし結婚は幸福ではなかった。1938年、エリザベスは夫を捨てて、エドワード・クラークの元に走った。クラークは著名な指揮者かつBBCのプロデューサーで、シェーンベルクの下で勉強した人物だった。その影響が、エリザベスのセリー技法を取り込む決定的要因だったのかも知れない。クラークとエリザベスは1942年に結婚した。 しかしエリザベスはいつも十二音列を使ったわけではなく、それに縛られることもなかった。たとえば、いくつかの作品では自分で創造した十四音列を使いもした。エリザベスはクロード・ドビュッシーの音楽がとても好きで、作品にもその影響ははっきりと見ることができる。また、ルイージ・ダッラピッコラとも親友だった。しかし、厳格なセリエリズムに対するエリザベスの否定的な見解は、エリザベスと十二音仲間たちとの間に観念的な食い違いをもたらすことになった。エリザベスの音楽は、「驚くべき業績、完全に個人的なセリーのスタイルと独創的な構成の明示」で、中心音なしでも、エリザベスの音楽の音調は自然さと「かちっと整然とした居場所」を持っているように見える。 エリザベスは指揮者のIris Lemare(1902年 - 1997年)、弦楽四重奏団を結成していたヴァイオリニストのアン・マクナーテン(Anne Macnaghten。1908年 - 2000年)とともに強力なトリオを作った。彼女たちのコンサートはロンドンの音楽界の力量を示し、またベンジャミン・ブリテンやエリザベス・マコンキー、グレース・ウィリアムズ(Grace Williams)、アラン・ロースソーンといった作曲家たちを紹介した。エリザベスにとって作曲はただの趣味ではなく、むしろ生き方だった。委嘱されようがされまいが、毎日数時間を作曲に費やした。しかし、クラークのフラットでの飲み会やパーティや、母親としての義務に仕事を妨げられ、完全な孤独の中で作曲しなければならなかった。
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