住吉神宮寺とは? わかりやすく解説

住吉神宮寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:28 UTC 版)

住吉大社」の記事における「住吉神宮寺」の解説

住吉大社境内では、かつて神宮寺営まれていた。『古今著聞集』では本地仏高貴徳王菩薩託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年758年)の創建とし、新羅渡来薬師如来本尊したため新羅寺」とも称されたとする。ただし貞観8年866年)には住吉社での読経の際に朝廷から僧11人が派遣されているため、この時点までの神宮寺存在は必ずしも確かではない。 『扶桑略記』などでは、天慶3年940年11月21日には住吉神宮寺で藤原純友調伏祈祷が行われたと見えるその後天喜元年1053年)に焼失したが、津守国基による再建西塔建立され承久元年1219年)には三綱置かれた。江戸時代の『住吉松葉大記』では、諸堂宇として本堂東塔西塔・東法華三昧堂・西常行三昧堂大日堂・救聞持堂・護摩堂食堂東西僧坊記載見える。しかし明治初年神仏分離破却廃寺となり、伽藍のうち護摩堂境内末社招魂社本殿転用されたほか、西塔切幡寺徳島県阿波市)に移築された(切幡寺大塔国の重要文化財)。現在の神宮寺跡地には住吉文華館が建てられている。 その他の住吉大社関係寺院としては、津守氏氏寺と見られる津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺がある。住吉神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺住吉三大寺数えられたという。 津守寺(跡地大阪市住吉区墨江)『中右記永長元年1096年)条では、住吉社神主津守国基大伽藍建立したと見える。「住吉社神主一族系図によれば津守氏神主勤めたのち晩年津守別当・塔別当になる例であった明治元年神仏分離破却廃寺荘厳浄土寺大阪市住吉区帝塚山東住吉大社の東に位置する創建不詳。『摂陽群談によれば応徳元年1084年)に住吉社神主津守国基勅命によって再興しその際土中から出土した金札の銘の「七宝荘厳極楽浄土云々」により寺号下賜されたといい、永長元年1096年)に諸堂宇建立落慶供養とがなされたという(詳細は「荘厳浄土寺」を参照)。 切幡寺大塔徳島県阿波市津守廃寺跡(大阪市住吉区墨江荘厳浄土寺大阪市住吉区帝塚山東

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