大道芸の住吉踊り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 09:37 UTC 版)
大道芸としての住吉踊りは、住吉神宮寺の僧徒が始めた勧進の踊りを京阪の願人坊主らが物乞いのために学び、俗信を唱えて大傘の柄を叩いて歌い踊って金銭を得ていたが、次第に滑稽な歌や踊り、芝居の振り真似なども加えて見世物化していき、それが江戸から諸国に伝わっていったとされる。古書の記述によると、正徳年間の1710年代にはすでに「住吉神社とは関係なく、大阪長町(現・大阪市中央区日本橋筋と浪速区日本橋)の非人らが傘と菅笠に赤い布をつけてお祓いの初穂料の名目で物乞いを始めたもの」とあり、その後人寄せのために見世物色を強めていき、名古屋では19世紀前半の文政ころから義太夫や豊後節、新内節といった音曲や、住吉踊り以外の物真似も加えた興行が人気を博し、江戸では橋本町(現・千代田区東神田)の願人坊主が住吉踊りを変形させたヤートコセ節踊り(ヤートコセは伊勢音頭の囃子言葉)を流行らせた。天保2年(1831年)に江戸中村座で初演された歌舞伎舞踊『六歌仙容彩』の「喜撰」の幕では、願人坊主が踊ったチョボクレや、ヤートコセ節に変じた住吉踊りが登場し「住吉さまの岸の姫松めでたさよ いさめの御祈祷 清めの御祈祷 天下泰平国土安穏めでたさよ」と唄い、大傘とともに坊主たちが踊る場面があり、人気の演目として今に続いている。大道芸の住吉踊りは明治以降も幇間の座敷芸や落語家らによる寄席芸「江戸住吉踊り」として、あるいは願人踊りなど郷土の祭りの芸能として引き継がれている。
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