大道芸の開始
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1976年に開校したパリ国立サーカス学校でパントマイム科の講師を努めていたIKUO三橋は、1981年に帰国した後、野毛にパントマイムのアトリエ「むごん劇かんぱにい」を開設、大道でも芸の披露を行っていた。野毛町に所在するバー「パパジョン」では、店主島村秀二を中心に、周辺の商店主たちとともに「野毛文化を育てる会」と称して、お囃子や寄席などの様々な企画を行っており、三橋もこれに誘われて参加することになった。野毛の商店主たちはかねてからの来客の流出に対して危機感を共有しており、「野毛文化を育てる会」では1985年に野毛の通りに絵画を並べる露天画廊企画を中心とした「春の野毛祭」行った。露天画廊はあまり注目を呼ばなかったものの、三橋が野毛町の喫茶店「ちぐさ」の駐車場で行った大道芸は人気を博し、翌年から野毛大道芸ふぇすてぃばるとして大道芸イベントを行うこととなり、三橋は総合プロデューサーとして企画に関わることになった。開始当初は主催者発表で3000人程度の観客であり、初回からの中心的メンバーの一人である森直美によるとこれも「盛った数字」であるということだった。戦後の日本には公道における「大道芸」の文化がなく、投げ銭などの習慣も定着しておらず、道路の使用許可を警察から得ることができないなど、試行錯誤が続いた。しかし、野毛町の中華料理店「万里」の店主で、後に桜木町駅から野毛方面へ抜ける地下通路「のげちかみち」の命名者となるなど数多くの町おこし事業を行った福田豊を中心に、三橋や野毛の商店主、また平岡正明、中村高寛、大島幹雄、四方田犬彦など、同町に関わりのある著名人なども大道芸イベントに参画し、徐々に認知度と来場者数を増やしていった。
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