伊勢崎の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:42 UTC 版)
伊勢崎市 伊勢崎市の位置 日本の首都・東京の北西約82km、群馬県南東部に位置する伊勢崎市は国有鉄道両毛線と東武伊勢崎線が接続し、主要地方道路が市中心部から放射線状に伸びるなど、交通の要衝として発展した。また、伊勢崎は古くから養蚕業が盛んであり織物の街として栄え、1940年(昭和15年)9月13日に近隣の村落と合併し市制が施行された。伊勢崎の東約16kmの位置には航空機生産の盛んな新田郡太田町があるが、戦時体制の確立と航空機の需要拡大に伴い、1942年(昭和17年)9月に市内末広町に中島飛行機伊勢崎第一工場、市内福住町(現在の平和町)に同第二工場が建設され、主要工場の一つである小泉製作所の所轄下に置かれた。両工場は終戦の時点で約6,000人の工員を有し、第一工場では主に油圧関連部品、第二工場では主にボルトやナット類の製造を行った。 1945年(昭和20年)2月、中島飛行機太田製作所がアメリカ陸軍第20航空軍のB-29およびアメリカ海軍の艦載機による4次にわたる空襲により工場機能の85%を喪失し工員101人が死亡する被害を受けると、同製作所が担っていた最終組み立て工程以外の作業を県内の伊勢崎市と桐生市と新田郡尾島町、栃木県の足利市と安蘇郡田沼町、埼玉県の児玉郡本庄町などの小部品組み立て工場に分散させるようになった。 1943年(昭和18年)7月、市内の織物工場は商工省の指示により保有設備を戦争資材として供出、1944年(昭和19年)には企業整備により軍需繊維工場へと転換し航空機用羽布や落下傘用布などの製造に従事した。1945年(昭和20年)には空襲の激化に伴い、周辺部の機械工場の疎開先として軍需工場へと転換したが、この他にも華蔵寺公園や伊勢崎競技場や市内の国民学校が中島飛行機などの要求に応じ軍需工場や関係施設に転換した。さらに同年8月に市街地では建物の強制疎開が行われ、防空対策のため伊勢崎駅(市内上町、現在の曲輪町)、伊勢崎警察署(市内日吉町、現在の大手町)、伊勢崎市役所(市内本町四丁目、伊勢崎郵便局(市内上町、現在の曲輪町))の各付近と本町3丁目の5か所に防空空き地が設置された。
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