人と思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 14:14 UTC 版)
董其昌は、禅に傾倒し書斎を画禅室と名付けるほどだったが、華厳や浄土等その他の仏教思想にも惹かれている。さらに異端思想家である李卓吾を友人らと北京郊外の極楽寺に訪ね、禅を通してその童心論を熱烈に受け入れている。李卓吾は仮を排し童心を説いたことで知られるが、董其昌が自らの芸術において天真爛漫を尊んだこともこの童心への帰着であろう。また普段の董其昌は我儘、身勝手で悪辣な性質だったことが明らかとなっている。還暦にして15歳の少女を妾とし、高利貸などをして蓄財し書画の蒐集に貪欲だったが、これらの悪徳が原因で民衆の襲撃を二度も受けている。欲望、功利を卑しむことを偽善とする李卓吾の主観唯心論を崇拝する董其昌にとって思わぬしっぺ返しだったろう。 董其昌は芸術では優れていたが、その人格は低劣で知られる。1604年(万暦32年)に湖広提学副使に任ぜられ、地方の教育行政の要職に就いたが、学生試験中の監督を放棄して行楽に出かけたり、試験前日に事務所の門前に「明日は試験なし」と掲示し、当日知らぬ学生達が出題を待ち続け、一人がたずねると「昨日出題したはずだが」と答え不合格にするなど、学生をしばしば愚弄した。このため地元有力者たちの怒りを買い、学生たちを多数集めて董其昌の官舎を襲撃破壊する事件に発展し、董其昌も解任されている。 また故郷華亭(上海市松江区)に戻った董其昌は、屋敷には豪邸を建て、再起を目論み積極的に役人に接触している。またやくざに他人の財産を強奪し一般女性を略奪し住民に暴行を働かせた。対して地方政府は見ぬふりをした。1616年(万暦44年)不正を明らかにした秀才らが殺害されたことで住民の怒りが爆発した。「米価を下げたいなら先ず董其昌を殺せ」という歌が広まり、恨みを持つ別地域の人も加わって襲撃し、董其昌は帰安に逃れ、豪邸は貴重な美術コレクションとともにことごとく燃やされている。また自分の扇面は董其昌筆であると言って董其昌との交友を誇示しようとした人は、全く逆効果で扇子は引き裂かれひどく殴られたという。
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