京極政経との家督争いとは? わかりやすく解説

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京極政経との家督争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 08:42 UTC 版)

京極高清」の記事における「京極政経との家督争い」の解説

文明18年1486年8月出雲下向していた京極政経上洛、高清の家臣多賀宗直京極政経通じて反乱起こした為、高清は近江甲賀郡逃れたが、10月反撃して多賀宗直破り、翌長享元年1487年5月美濃から江北戻った多賀宗直討ち果たす一方六角高頼六角氏権力強化強め為に近江国内の公家・寺社の荘園幕臣所領押領し、幕府に対して反抗的な態度示した。9代将軍足義尚長享元年8月に、幕府威信回復目指し自ら六角氏征伐乗り出す長享・延徳の乱)。 高清は征伐軍加わったが、六角征伐最中長享2年1488年8月京極政経多賀経家らが挙兵した。高清は近江松尾戦い京極政経多賀経家を伊勢梅津敗走させたが、翌延徳元年1489年)に近江国人衆の支援得た京極政経敗れて追放延徳2年1490年)に美濃実力者斎藤利国(妙純)を頼り越前敦賀次いで近江坂本逃れる。しかし、京極政経10代将軍足利義材(のちの義稙)の怒りを買い失脚明応元年1492年12月家督京極氏惣領職交代認められる。 翌明応2年1493年4月明応の政変によって将軍義材が失脚し新たに足利義高初め義遐)が11代将軍に就任するこれを機に、その義高から偏諱(「高」の字)を賜って、初名の秀綱(ひでつな)から高秀(たかひで)(のち高清)と改名したのもこの頃思われる(義高は文亀2年1502年)には「義澄」に改名するのでそれまでのこととなる)また、元々京極氏通字でもあった「高」の字を名前に用いようになったことで、高清以降当主そのまま「高」の字を代々前に用いようになった。[独自研究?][要出典] 京極政経八尾城居たが、この細川氏政変協力して勢力盛り返したため、明応2年10月、高清は持済院や越前朝倉氏と共に北近江討ち入った。これに対し細川政元足利義材討たれ山内政綱の子山内就綱六角惣領任じた明応3年1494年11月、持是院(斎藤妙純)が山内就綱延暦寺と戦う六角高頼支援したが、京極中書事などにより之を中止したという。

※この「京極政経との家督争い」の解説は、「京極高清」の解説の一部です。
「京極政経との家督争い」を含む「京極高清」の記事については、「京極高清」の概要を参照ください。

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