京極政経との家督争い
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文明18年(1486年)8月に出雲に下向していた京極政経が上洛、高清の家臣多賀宗直が京極政経に通じて反乱を起こした為、高清は近江甲賀郡へ逃れたが、10月に反撃して多賀宗直を破り、翌長享元年(1487年)5月に美濃から江北へ戻った多賀宗直を討ち果たす。 一方、六角高頼は六角氏の権力強化を強める為に近江国内の公家・寺社の荘園や幕臣の所領を押領し、幕府に対して反抗的な態度を示した。9代将軍足利義尚は長享元年8月に、幕府の威信回復を目指し自ら六角氏へ征伐に乗り出す(長享・延徳の乱)。 高清は征伐軍に加わったが、六角征伐の最中の長享2年(1488年)8月に京極政経・多賀経家らが挙兵した。高清は近江松尾で戦い、京極政経と多賀経家を伊勢梅津へ敗走させたが、翌延徳元年(1489年)に近江国人衆の支援を得た京極政経に敗れて追放、延徳2年(1490年)に美濃の実力者・斎藤利国(妙純)を頼り越前敦賀、次いで近江坂本へ逃れる。しかし、京極政経は10代将軍足利義材(のちの義稙)の怒りを買い失脚、明応元年(1492年)12月に家督(京極氏惣領職)交代を認められる。 翌明応2年(1493年)4月、明応の政変によって将軍義材が失脚し、新たに足利義高(初め義遐)が11代将軍に就任する。これを機に、その義高から偏諱(「高」の字)を賜って、初名の秀綱(ひでつな)から高秀(たかひで)(のち高清)と改名したのもこの頃と思われる(義高は文亀2年(1502年)には「義澄」に改名するのでそれまでのこととなる)また、元々京極氏の通字でもあった「高」の字を名前に用いるようになったことで、高清以降の当主もそのまま「高」の字を代々名前に用いるようになった。[独自研究?][要出典] 京極政経は八尾城に居たが、この細川氏の政変に協力して勢力を盛り返したため、明応2年10月、高清は持済院や越前の朝倉氏と共に北近江に討ち入った。これに対し、細川政元は足利義材に討たれた山内政綱の子山内就綱を六角惣領に任じた。明応3年(1494年)11月、持是院(斎藤妙純)が山内就綱や延暦寺と戦う六角高頼を支援したが、京極中書事などにより之を中止したという。
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