京極家時代
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結局、堀尾家に代わって寛永11年(1634年)、若狭小浜藩より京極忠高が入部した。京極家は戦国時代に守護代の尼子家に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになる。24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなった。しかし3年後の寛永14年(1637年)、忠高は死去した。死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず、改易となった。しかし高和は同年、祖先の勲功を理由に播磨龍野藩6万石に封じられた。この時点で隠岐は公儀御料となった。
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京極家時代
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関ヶ原の戦いの戦功により、小浜には近江大津6万石を領し大津城主であった京極高次が若狭一国を与えられ、若狭小浜8万5000石で入ることとなる。高次は関ヶ原の戦いに先立って、小勢をもって大津城に籠城し、西軍の立花宗茂・毛利元康らの大軍勢と激しい攻防戦を繰り広げた。しかし大砲を天守に打ち込まれるなど西軍の激しい猛攻の前に、大津城は開城を余儀なくされた。武装解除を命じた後に高次自らは高野山金剛峯寺に入った。ところが、大津城の開城と同日に、関ヶ原の本戦では西軍が敗退していた。戦後の論功行賞で徳川家康は高次の功績を高く評価し、高次に若狭一国を与えて国持大名としたのである。高次は名乗りを若狭守と変え、若狭に入った。これが小浜藩の立藩である。 高次は翌年、近江高島郡内において7000石を加増され、合計9万2000石を領する大名となった。慶長14年(1609年)の高次死後、その家督は子の京極忠高が継ぐ。大坂の陣の功などによりさらに越前敦賀郡一郡全域を加増され、このときに若狭から越前敦賀郡までを一円支配する近世小浜藩の藩領が確定した。 忠高は義母の常高院と共に、大坂の陣などでは和議交渉で活躍した人物である。寛永11年(1634年)に出雲・隠岐松江藩23万5000石へ忠高は移封された。
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