京極家時代とは? わかりやすく解説

京極家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:53 UTC 版)

松江藩」の記事における「京極家時代」の解説

結局堀尾家に代わって寛永11年1634年)、若狭小浜藩より京極忠高入部した京極家戦国時代守護代尼子家支配権奪われる以前出雲守護であり、故地復帰したことになる。24万石領地加え公儀御料石見銀山石見国邇摩郡邑智郡の計4万石を預かることとなった。しかし3年後寛永14年1637年)、忠高は死去した死に臨み末期養子として甥の高和を立てた認められず、改易となった。しかし高和は同年祖先勲功理由播磨龍野藩6万石封じられた。この時点隠岐公儀御料となった

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京極家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:32 UTC 版)

小浜藩」の記事における「京極家時代」の解説

関ヶ原の戦い戦功により、小浜には近江大津6万石領し大津城であった京極高次若狭一国与えられ若狭小浜85000石で入ることとなる。高次関ヶ原の戦い先立って小勢をもって大津城籠城し、西軍立花宗茂毛利元康らの大軍勢と激し攻防戦繰り広げた。しかし大砲天守打ち込まれるなど西軍激し猛攻前に大津城開城余儀なくされた。武装解除命じた後に高次自らは高野山金剛峯寺入った。ところが、大津城開城同日に、関ヶ原本戦では西軍敗退していた。戦後論功行賞徳川家康高次功績高く評価し高次若狭一国与えて国持大名としたのである高次名乗り若狭守と変え若狭入った。これが小浜藩立藩である。 高次翌年近江高島郡内において7000石を加増され、合計92000石を領する大名となった慶長14年1609年)の高次死後、その家督は子の京極忠高が継ぐ。大坂の陣の功などによりさらに越前敦賀郡一郡全域加増され、このときに若狭から越前敦賀郡までを一円支配する近世小浜藩藩領確定した。 忠高は義母常高院と共に大坂の陣などでは和議交渉活躍した人物である。寛永11年1634年)に出雲隠岐松江藩235000石へ忠高は移封された。

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