五高時代
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1898年(明治31年)7月10日帝大を卒業、8月16日第五高等学校嘱託講師となり、結婚で転出した長谷川貞一郎と入れ替わりに熊本市北新坪井合羽丁の下宿に住み込んだ。1899年(明治32年)2月10日教授となり、1901年(明治34年)大学予科独語科主任、1906年(明治39年)6月第五学科(ドイツ語科)主任、1909年(明治42年)1月評議員、1911年(明治44年)10月第三部長を歴任した。 1912年(大正元年)9月6日同僚桑野礼治が広島県忠海町で海水浴中脳貧血で水死し、同月現地調査に赴いた。1915年(大正4年)7月中国・朝鮮出張を命じられたが、病気のため菊地行蔵が代理で赴任した。 1920年(大正9年)9月13日文部省により1年半のドイツ・アメリカ合衆国留学を命じられ、22日私費留学を決めた同僚坂田道男と春洋丸で横浜港を出港、サンフランシスコ・ロサンゼルス・グランドキャニオン・シカゴ・ナイアガラの滝を観光し、ニューヨークを拠点にワシントンD.C.・ボストンにも足を伸ばした。アメリカの大学については、男女共学、黒人の黒さと数、運動の活発さ、寄付文化、博物館の充実ぶりが印象に残ったという。12月25日ホワイト・スター・ラインの汽船でニューヨークを発ち、1921年(大正10年)1月2日リヴァプールに到着、ロンドンに入り、秩序立った労働運動に感銘を受けた。ここで坂田と別れて大陸に渡り、パリで第一次世界大戦の傷跡を目にし、ベルギー・ベルギーを経てドイツに入った。ベルリン大学で聴講生となるも、授業には出ず、スイス・イタリア・チェコスロバキア・オーストリア・ハンガリーを巡り、後から来た坂田とデンマーク・スウェーデン・ノルウェーを旅行し、マルセーユから出航、1922年(大正11年)8月23日神戸港に帰国した。 元教え子松尾精一に主任教授の座を譲り、1932年(昭和7年)2月6日教授を辞職した後も、嘱託講師として無給で勤め続けた。5月14日武藤虎太と共に同校初の名誉教授となった。
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