主な廃止航路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:56 UTC 版)
尾道 - 今治航路(旅客船・水中翼船・高速船)山陽新幹線博多延伸後、乗り換えの便利な三原に乗客が流れ[要出典]運航規模が縮小した。生口橋開通の1991年、尾道~瀬戸田間が廃止となる。 1945年、第十東予丸沈没事故が発生し、死者・行方不明は397名。 新幹線開業以前も1972年の松山空港ジェット化以後、愛媛から本州へのメインルートからは外れていたといわれる。[要出典] 国鉄との通過連絡運輸を実施しており、1枚の切符で四国と本州間の駅を結んだ。 三原 - 今治航路(昭和海運と共同運航)新幹線の乗り継ぎ客等で多くの利用があったが、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)開通に伴い廃止された。その後、せと観光ボートが同航路を運航していたが、2007年(平成19年)に運航を休止した。 広島 - 呉 - 今治航路1970年、ぷりんす号シージャック事件が発生したのは、この航路である。 1984年、関連会社の広島今治高速船に移管、2006年に運航を休止。 福山・多度津フェリー1903年(明治36年)3月18日、山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した多尾連絡船(多度津港 - 尾道港間)を前身とする。 1906年(明治39年)12月1日、山陽鉄道が鉄道国有法国有化され、同社および山陽汽船商社の航路も移管され国営となった。 1910年(明治43年)6月12日、宇高連絡船が開設し多尾連絡船は廃止される。同航路を東予運輸が引き継ぐ。 1966年(昭和41年)4月1日、多度津・鞆間のフェリーとして運航開始するとともに、鞆・尾道間は廃止。このうち後者は備後商船が連絡運輸を実施したが、1978年(昭和53年)に福山港に変更されたのち、1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通時に廃止。以降は当社と広汽船・多度津町の三者出資による第三セクター「福山・多度津フェリー」(後にせとうち物流)が運航を承継したが、多度津町の資本引き揚げなどを経て2008年(平成20年)に廃止された。
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