丹後杜氏(たんごとうじ)
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丹後杜氏
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詳細は「丹後杜氏」を参照 大正時代末期から昭和期には伏見地方の醸造界を牛耳るまでに発展した「丹後杜氏」は、その大多数が宇川地方出身者であり、古くは「宇川杜氏」と呼ばれた。江戸時代の中頃、伏見地方に進出し、当初は米踏労働者であったが、次第に「蔵人」として経験を積み、明治時代後期に水車動力が導入されて米踏労働に人員が不要となると大半が酒造りに転向した。丹後杜氏としてその技量が注目されるようになったのは、江戸時代末期、文久・文治・慶応年間の頃であるといわれ、20余名の蔵人が伏見地方で酒造りに携わったほか、南山城や大和方面にも進出し、1881年(明治14年)頃には50名以上、明治末期から大正初期には300名以上が丹後杜氏として酒造りに従事し、全盛期を築いた。最盛期には400人以上いた丹後杜氏のうち、300人以上の丹後杜氏が働いたという伏見のキンシ正宗では、昭和期に伏見杜氏組合長も務めた丹後杜氏の名匠・岩崎熊治郎らを酒造りを支えた杜氏たちとして紹介する。 宇川地域からの出稼ぎ労働は、寛政年間で奈良地方に足を延ばして寒天づくりに従事したのがはじまりという。宇川地方の農家は全般に零細が多く、農閑期の冬場はとくに積雪により冬籠りを余儀なくされるため、この3ヵ月ほどの期間を出稼ぎに充てたことが理由であったが、寒天づくりの期間は短かったため、より長期間収入を得られる酒造の出稼ぎ労働に次第に転向した。
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