中山競馬倶楽部における業績
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「肥田金一郎」の記事における「中山競馬倶楽部における業績」の解説
1926年、帝国競馬協会理事を辞した肥田は、千葉県の中山競馬倶楽部に招かれ、常務理事に就任した。これ以前、同倶楽部は葛飾村古作(現・船橋市古作)にあった競馬場を行徳町(現・市川市行徳)の海岸沿いへ移転することを計画していたが、その完成を目前にして関東大地震(関東大震災)が発生し、新競馬場は津波によって流失した。この被害によって中山競馬の開催は妨げられ、混乱に乗じた幹部同士の権力闘争も発生するなど、倶楽部は機能麻痺状態に陥っていた。1924年より理事長は欠員が続いており、常務理事は事実上の最高職であった。 肥田はまず新たな競馬場用地の確保に着手、旧競馬場のあった古作の別の土地を改めて候補に選んだ。倶楽部の内紛で長らく競馬開催ができず土地の賃借料支払いが滞っていたことから、周辺地権者の悪感情が強く交渉は難航したが、中山町々長中村勝五郎、加藤貞次、法典村々長高橋恒治といった地元有力者の協力を取り付け、翌年には契約締結に至った。続いて肥田は「東洋一の競馬場」を建設すべく独断で競馬場の着工申請を行ったが、承認理事会において常務理事・阿部純隆が「着工申請は肥田の越権行為である」として不信任動議を提出した。これを受け、肥田は直ちに農林相山本悌二郎に宛て、事態収拾の陳情書を送付。この書簡は「同倶楽部に纏綿たる情実を赤裸々に具陳し謹んで明鑑を仰ぎ、もって同倶楽部の刷新更正の御裁断を懇願する」として、相次ぐ権力闘争などの内幕を詳細に記したものであった。これに対し農林省畜産局は「紛擾に終始し競馬開催が行われないことは競馬法違反であり、12月末日までに正常開催が行われなかった場合、中山競馬倶楽部の公認を取り消す」旨の通牒を返した。ここに至り内紛は沈静化、16日後の10月23日には新生中山競馬場が着工された。その後も肥田に反感を持つ一派は工事妨害を行うなどして裁判にも発展したが、行政による調停もあり大事に至らず、昼夜兼行の工事によって約70日という日数で落成した。 翌年から行われた新競馬場による開催は活況を呈し、また、身元不審な人間も出入りしていた旧習を改め規則励行に務めたことも奏功し、従来「競馬界の癌」との世評まであった中山競馬倶楽部は急速な成長を遂げた。肥田はその後も常務理事として倶楽部を主導、1930年からは正式に理事長となり、死去するまでその職にあった。
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