中エラム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 13:52 UTC 版)
紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立から紀元前1100年頃の、イシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代である。なお古エラム時代のとの境目には諸説ある。古エラム時代末期の衰退期から再びエラムが列強として登場する時代であり、バビロニア文化の影響を強くうけた時代である。カッシート朝(バビロン第3王朝)を滅ぼしたが、しかし、最後はネブカドネザル1世の侵攻で大打撃を被り、再び衰退した。
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中エラム時代
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エラムに再び強力な政治的統合体が現れるのは、「アンシャンとスサの王」を称したイゲ・ハルキ(ドイツ語版)王の時代や、紀元前16世紀頃から紀元前15世紀頃にかけて台頭したウンタシュ・ナピリシャ(英語版)王の時代であり、中エラム時代と称する。 キディヌ朝 (Kidinuid dynasty) に5人の王が出た。 イゲ・ハルキは古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられている。イゲ・ハルキ朝 (Igehalkid dynasty) の王は10人、またはそれ以上いると考えられるが、彼らとバビロニアとの交渉が記録に残っている。紀元前1320年には、一時カッシート朝(バビロン第3王朝)の王クリガルズ2世(英語版)に服属したが、紀元前1230年頃には、同王朝のカシュティリアシュ4世(英語版)を破り、更にエラム王キディン・フトゥラン3世 (英: Kidin-Hutran III) はアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世の圧迫によって弱体化したカッシート朝へ二度にわたって侵攻し滅亡させた。しかし間もなくアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世と戦って破れ、バビロニアから駆逐された。 紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけて新たにシュトルク朝 (Shutrukid dynasty) がおこり、バビロニアに再び進出を図った。シュトルク・ナフンテ1世(英語版)は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功した。マルドゥク神像を略奪した他、ハンムラビ法典の石碑もこの時スサへ持ち帰り、後に現代の考古学者によってスサで発見されることになる。アッシリアの政治混乱ともあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていった。だが、間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還された。 ネブカドネザル1世の攻撃以降、300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになる。僅かにバビロニアとアッシリアの戦いに際して、バビロニア王マルドゥク・バラシュ・イクビ(英語版)を助けて参加したことなどが記録されている。エラムはこの時代、バビロニアから著しい文化的影響を受けた。文書史料に楔形文字が多用された他、アッカド語を用いた記録も数多く残された。バビロニア式の巨大なジッグラトも建築された。ただし、エラム独自の相続制度は維持され、シュトルク朝もまた兄弟相続を基本としていた。
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