不動産開発路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
拓銀では長らく大蔵省出身の頭取が続いていたが、1977年(昭和52年)に五味彰が生え抜きとして2人目の頭取に、1983年(昭和58年)に鈴木茂が3人目の頭取に就任した。生え抜きの頭取が二代続けて誕生したことで、行内は業容拡大への盛り上がりを見せる。邦銀は1985年(昭和60年)頃より、バブル景気に乗って不動産融資に注力し、地価の高騰は首都圏から三大都市圏を中心として日本全国へ広まっていった。 だが北海道は、景気の波は都市圏よりも遅れてたどり着く。他の都銀同様、拓銀も道外の拠点だった東京営業部や大阪支店を通じて不動産融資を始めたが、これが本格化したのは1988年(昭和63年)頃のことで、一足出遅れた格好となった。既に収益競争に突入していた他の都銀との差は広がり、もはや横浜銀行や千葉銀行などの上位地方銀行にまで追い上げられ、拓銀の焦りが募っていた。そこで、鈴木頭取は拡大路線をとった。 通常の銀行業務なら、土地の評価額の70%程度しか融資を行わないが、バブル期は今後の地価高騰も見越して、その時の評価額の120~130%もの融資を行っていた。当時の金融機関の多くも同様の融資形態を取っていたが、拓銀は進出が後発だったため、融資の際、他の金融機関がすでに担保としている土地に、劣後順位で担保設定せざるを得なかった。これは、借り手の不動産会社が破綻した際、回収可能分が減ることを意味し、後に現実のものとなる。 これらの背景にあったのは、1989年(平成元年)から構想され、1990年(平成2年)に策定された「たくぎん21世紀ビジョン」である。1989年に頭取に就任した山内宏が、鈴木の拡大路線を受け継ぎ、米国のコンサルティング会社マッキンゼーに依頼したもので、当初は「道内でのリーディングバンク」、「本州でのニューリテール(富裕層向け資産運用)」、「アジアでの海外戦略」を三本柱とするものだったが、拓銀幹部の提案により「企業成長・不動産開発支援(インキュベーター)」が最終案に付け加えられた。頭取時代に拡大路線を決定した鈴木会長、80年代後半にインキュベーター路線の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、「たくぎん21世紀ビジョン」がスタートした1990年に陣頭指揮をとった海道弘司常務の3人は「SSKトリオ」と呼ばれた。この「SSKトリオ」が事実上行内の人事権を掌握してトロイカ体制を作り上げ、拓銀の企業体力を明らかに上回る無理な拡大路線を推し進めていった。
※この「不動産開発路線」の解説は、「北海道拓殖銀行」の解説の一部です。
「不動産開発路線」を含む「北海道拓殖銀行」の記事については、「北海道拓殖銀行」の概要を参照ください。
- 不動産開発路線のページへのリンク