上桜城の戦いと篠原氏滅亡
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「篠原長房」の記事における「上桜城の戦いと篠原氏滅亡」の解説
『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。小少将は細川持隆の側室であったが、持隆の生存時より三好実休と不義の関係にあり、後に実休の妻となり三好長治、十河存保の2子をもうけた。長房が阿波に帰国した前後より、小少将は三好氏を支えていた篠原自遁と相通じあう仲となり、長房を疎んじるようになった。政務を正し、小少将の不義を諌めたため、怒りをかったと言われている。長房はこのような状況にうんざりしたのか、上桜城に引き籠るようになった。しかしこの事が逆に裏切り、反撃にでると思われたのか、長治は長房討伐の兵をあげることとなる。 元亀4年(1573年)5月、長房は長治・真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦の後7月に自害した(上桜城の戦い)。篠原実長(自遁)の讒言のためという。ただし、同年4月に十河存保が堺で織田信長と接触しており、柴田勝家にあてて、「十河より河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に三好義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を約束し、もし一度の攻撃で陥落しなくても攻略に成功すれば河内半国を与えると約したので、急ぎ出陣するように」という信長の指示が出されている。これと連動して、対織田戦を主導してきた長房が阿波三好家から排除されたとの見方もある(但し和泉岸和田城主・松浦氏の松浦孫八郎は十河一存の実子であり、先の書状の十河某は、十河存保とは別の畿内の勢力の可能性もある)。 長房の妻と次男・新次郎、三男・義房ら子供達は妻の里であった教行寺の兼詮を頼った後、紀伊国へ落ち延びた。後に豊臣秀吉の用人として仕えたとも言われている。新次郎は後に帰国し、父や兄の供養碑を建てている。 豊臣秀吉の用人になった子孫は大阪城のすぐ近くに屋敷を構えていた佐竹氏に仕え、朝鮮出兵や大阪冬の陣に参加した。佐竹氏は秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いの際に西軍側についたことで常陸から出羽秋田に転封になった。数年後に下野萱橋(現栃木県小山市)に陣屋ができ、さらに数年後下野国薬師寺(現栃木県下野市)に移った。その後仁良川(現栃木県下野市)に陣屋ができ、明治維新まで続いた。周辺には佐竹氏の家臣の子孫が今でも多数住んでおり、篠原の名字も見える。 天正10年(1582年)に18歳で存保に仕えたとされる二鬼島道智による『昔阿波物語』には、我が果てても5年は長治様が阿波を保つであろう、5年の後は他人の国となるだろうと長房が言い残したとする。また長房は背が高かったので、自害の後も、讃岐や伊予国でその姿を見たという者があったという。長房の死後、上桜城は廃され、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城した。
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