上桜城の戦いと篠原氏滅亡とは? わかりやすく解説

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上桜城の戦いと篠原氏滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:26 UTC 版)

篠原長房」の記事における「上桜城の戦いと篠原氏滅亡」の解説

三好記』によると小少将絶世の美女評されている。小少将細川持隆側室であったが、持隆の生存時より三好実休不義の関係にあり、後に実休の妻となり三好長治十河存保の2子をもうけた。長房が阿波帰国した前後より、小少将三好氏支えていた篠原自遁相通じあう仲となり、長房を疎んじるようになった政務正し小少将不義諌めたため、怒りをかったと言われている。長房はこのような状況うんざりしたのか、上桜城引き籠るようになった。しかしこの事が逆に裏切り反撃にでると思われたのか、長治は長房討伐の兵をあげることとなる。 元亀4年1573年5月、長房は長治真之により居城の上桜城攻撃され抗戦の後7月自害した上桜城の戦い)。篠原実長(自遁)の讒言のためという。ただし、同年4月十河存保が堺で織田信長接触しており、柴田勝家にあてて、「十河より河内国若江城攻撃後援要請受けたことを通知河内国若江城即時攻略すれば十河三好義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を約束し、もし一度攻撃陥落しなくても攻略成功すれば河内半国を与えると約したので、急ぎ出陣するように」という信長指示出されている。これと連動して、対織田戦を主導してきた長房が阿波三好家から排除されたとの見方もある(但し和泉岸和田城主・松浦氏松浦八郎十河一存実子であり、先の書状十河某は、十河存保とは別の畿内勢力可能性もある)。 長房の妻と次男新次郎、三男・義房ら子供達は妻の里であった教行寺の兼詮を頼った後、紀伊国落ち延びた。後に豊臣秀吉用人として仕えたとも言われている。新次郎は後に帰国し、父や兄の供養碑建てている。 豊臣秀吉用人になった子孫大阪城のすぐ近く屋敷構えていた佐竹氏仕え朝鮮出兵大阪冬の陣参加した佐竹氏秀吉亡くなった後、関ヶ原の戦いの際に西軍についたことで常陸から出羽秋田転封になった数年後下野萱橋(現栃木県小山市)に陣屋ができ、さらに数年後下野国薬師寺(現栃木県下野市)に移ったその後仁良川(現栃木県下野市)に陣屋ができ、明治維新まで続いた周辺には佐竹氏家臣の子孫が今でも多数住んでおり、篠原名字見える。 天正10年1582年)に18歳で存保に仕えたとされる鬼島道智による『昔阿波物語』には、我が果てて5年長治様が阿波を保つであろう5年の後は他人の国となるだろうと長房が言い残したとする。また長房は背が高かったので、自害の後も、讃岐伊予国でその姿を見たという者があったという。長房の死後上桜城廃され、長房討伐功績挙げた川島惟忠川島城築城した。

※この「上桜城の戦いと篠原氏滅亡」の解説は、「篠原長房」の解説の一部です。
「上桜城の戦いと篠原氏滅亡」を含む「篠原長房」の記事については、「篠原長房」の概要を参照ください。

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