上条堰の開発とは? わかりやすく解説

上条堰の開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 16:17 UTC 版)

上条堰」の記事における「上条堰の開発」の解説

こうした歴史的景観から上条堰流路には古くからの定住痕跡想定されているが、上条堰に関する最古文献史料戦国時代元亀3年1572年3月26日武田家朱印状によれば上条堰破損に際して牛久中下条大下条天狗沢宮地下方の6郷に対して井堰再興命じられており、この段階で井堰開発され利用されていたことが確認される。 定 牛句郷 中下条下方大下条天狗沢宮地郷 以上 上条之堰破損候間、右之郷中談合、可令再興之旨、御下知候者也、仍如件 元亀三年 壬午 跡部美作守奉三月廿六日(龍朱印) — 「石原家文書武田家朱印状 また、元亀3年武田家朱印状からは武田氏により把握された6郷が共同して井堰管理・維持行っている慣行がわかり、戦国期治水大名権力よるものだけではなく地域社会によって担われていた点が注目される高野山成慶院武田家過去帳』や文化11年1814年編纂甲斐国地誌甲斐国志』に拠れば上条堰管理利用した村落律令制下松尾社志摩荘属していたという。上条堰灌漑する島上条地域志摩荘中核地域にあたり中下条には直営田を意味する字名「御証作」、中下条南の隣接する大下条には志摩荘の荘鎮守であるノ尾明神(現在は中下条鎮座)に由来する考えられるノ尾」の字名見られる。 「御証作」「ノ尾」は中下条大下条挟んで南北対置しており、両字地域には金の尾遺跡の尾遺跡分布しており集落遺跡確認される。両字地域は微高地上に位置し洪水被害遭いにくく安定した開発臨め地域であり、上条堰鎌倉時代志摩荘成立過程開発され可能性考えられている(西川 2010)。 また、『国志』神社によれば富士川町最勝寺最勝寺伝来する甲斐守護武田信重銘の鰐口島上条続の八幡神社旧蔵と言われ、『国志』古跡によれば島上条大庭には志摩荘の地頭土屋氏館跡があったという。また、元亀3年武田家朱印状記される6郷の比定領域のうち続の八幡神社では川除祭礼が行われており、上条堰志摩荘のうち島上条地域中心に管理・維持されていたと考えられている。 『国志』山川第一に拠れば近世には上条堰取水地点牛久村にちなみ「一ノ渠」「牛久渠」と呼ばれており、「牛久、境、島上篠、中下篠、大下篠」の5か共同管理利用されていたという。元亀3年武田氏朱印状と『国志』の記述では井堰管理利用していた村落のうち牛久中下条大下条および近世中下条編入され宮地一致し中世から近世にかけて継続され利用されていたことが確認されるが、近世には志摩荘中心とする共同意識弱まり取水地点牛久村地位向上した考えられている。 また、天狗沢上条堰から分岐する宮堰の灌漑地域であったほか、慶長17年1612年)に亀沢上流清沢川から取水する大垈堰が開発されたことによりその灌漑地域にも含まれ上条堰からは離脱した考えられている。なお、天狗沢は『国志』古跡第九によれば大垈堰の灌漑する大垈大久保村同様に穂坂荘に属していたとされ、天狗沢上条堰から離脱した事情はこうした歴史的由緒存在していたと考えられている。 現在は流路大半暗渠となっているが、甲斐市によって管理され流路田地潤す水路として機能している。

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