上杉遺民一揆
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詳細は「上杉遺民一揆」を参照 兼続の催促、三成からの書状により、上杉譜代の兵達が8千人、鉄砲が2千挺集まった(『北越太平記』)。兼続は身分の低い兵のうち、智謀に富み忠義のある者を越後に浪人を装わせて潜入させ、寺社などに検地入を苦情の一つとして一揆を起こさせ、堀家の会津入りを遮らせようとした(『越後風土記』)。8月1日、一揆は奥広瀬から起こり、小倉主膳の守る下倉城を囲んだ。小倉主膳は討死したが、救援で駆けつけた直寄が数百人を討ち取り一揆を鎮圧した。直政も柏崎方面へ出陣し、一揆を鎮圧した。8月3日、一揆勢は堀直政の居城三条城を攻撃したが、守将の直清が撃退している。 7月21日、上方で石田三成が挙兵していたため、家康は江戸に戻った。兼続は家康追撃を景勝に進言するが、景勝は「今回の件は堀直政の讒言により家康が仕掛けてきたので、合戦の準備をしたにすぎない。しかし家康が江戸に引き返すからには、こちらも会津へ引取るべきは当然である」と出陣を拒否した。9月8日、直政は長男の直清、次男の直寄と共に三条城から津川に向けて兵を出し、これを平定した。9月21日、一揆鎮圧の功により家康から感状を賜った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを境に一揆は自然消滅していった。
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上杉遺民一揆
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慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にし高所にて備えているので、戦っても必ず敗北する、密かに脇道より敵の横合いから攻めて切り崩さば、勝利はこちらにある」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。
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