村上藩初代藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/18 15:40 UTC 版)
慶長3年(1598年)1月、陸奥国会津若松城主の蒲生秀行が家中の抗争を理由に下野宇都宮城への減封を命ぜられ、玉突きで大規模な移封が生じた。同年4月、秀治の越後移封に伴い、頼勝も小松城から越後本庄城(のち村上城と改める)9万石に加増移封された。8月の秀吉の死で遺物左文字の刀を受領。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは越後に在国。堀秀治と同じ東軍に与して、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努め、戦後は徳川家康から所領を安堵された。 頼勝には男子がなく、はじめ堀秀政の三男を養子として貰い受けたが早世したため、娘婿戸田内記の子の忠勝を養子にした。また、別の娘は権大納言烏丸光広の側室となって、光賢を産んでいる。 大徳寺大慈院の過去帳によれば慶長9年(1604年)5月28日に没した。法名は大慈院過去帳によれば「蓬雲院殿玉翁紹燦大禅定門」、『鶴牛山下録』によれば「法雲寺殿玉翁紹燦大居士」あるいは「照雲院玉翁浄珊大居士」。墓は大慈院に残る他、『鶴牛山下録』には耕雲寺(村上市)とあるもののこちらは現存しない。没年月日については慶長年間から元和年間にかけて諸説あるが、元和2年には「村上周防守忠勝」が知行宛行状を発給するので、この頃までに頼勝は死去または引退し忠勝に交代したものと見られてきた。元和9年9月26日(1623年11月18日)とするものもあるが、この日付けは忠勝の没年月日である。 村上藩は忠勝が継いだが、元和4年(1618年)4月、家中の反目抗争を理由に改易された。
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