三宝寺池エリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:52 UTC 版)
当地には元々武蔵野を支配した豊島氏後期の居城、石神井城があり、同氏が室町時代に滅んだ時に消失したが、今は三宝寺池の南に石神井城址碑が立っている。三宝寺池はかつて石神井川の主水源とされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、池の南の台地に築城したとされている[要出典]。 同碑の上は丘陵になっていて、階段で登ると左手に本郭跡、空堀(からぼり)や土塁の遺跡が保存されており、高い木立がそびえる広場(無名)に出る。園外になるがそこは氷川神社と鳥居をくぐれば繋がっていて、池の南側は全体が雑木林になっている。同神社は元々石神井城の鎮守として創建された(後述)。同じく園外だが池の名称の由来になった三宝寺も細道を挟んで隣接している(後述)[要出典]。 大正期に日本初の100mプールとして整備され、その後に西武鉄道が「石神井釣り道場」(1955~87年)として運営していた部分は、1989年(平成元年)に水辺観察園として整備されている。因みに100mプールは府立第四公衆遊泳場としてできたもので、当時開通したばかりの武蔵野鉄道が駅からプールまで無料バスを運行していた。1932年ロス五輪の金メダリスト、鶴田義行や清川正二ら選手団もこの石神井プールで合宿し「石神井遊泳団」と称号された。大正期にはまた、料亭の豊島館、旅館の武蔵野館、茶亭の見晴亭も池の畔(南東のやや高台)にできていて、そこは文士や芸術家らが集まった。 三宝寺池バス停の近くには「ひょうたん池」がある。三宝寺池の南東端の排水溝の水路を通った水は、途中ひょうたん池に引き込まれた後、井草通り下の暗渠を通って石神井池に注いでいる[要出典]。 同池の北側は大正期に創業した茶屋「豊島屋」、石神井公園サービスセンター、高い木立がそびえるアスレチック(遊具あり)・おべんと・くぬぎ(遊具あり)・さくらの各広場、A地区野球場などになっている。同池の北西には豊島氏の伝説に因んだ殿塚、姫塚があり、同池の西はフェンスで囲われた野鳥誘致林、広場(無名)、同池南西は小さな宇賀神社上広場(通称)になっている[要出典]。 北端で富士街道に面する「石神井松の風文化公園」は区立公園である。
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