三代目戸谷半兵衛光寿
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通称を戸谷 双烏(1774年 - 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している。 彼の代で、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸に22か所、京都に3か所を所有。『関八州持丸長者富貴鑑』『諸国大福帳』などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15万数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ。 寛政4年(1792年)に、陸奥、常陸、下総の村々へ小児養育費として50両、文化3年(1806年)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際には、森田豊香らと共に千両を上納し、困窮者の救済にあたり、足尾銅山吹所世話役に任命された。この他、文政4年(1821年)には岩鼻代官所支配村々の旱魃救援金百両を拠出、また、基金を献金して伝馬運営の資金に充て、神流川無賃渡しも継続。数々の慈善事業をし、名字帯刀を許された。
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