三代目戸谷半兵衛光寿とは? わかりやすく解説

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三代目戸谷半兵衛光寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 18:46 UTC 版)

戸谷半兵衛」の記事における「三代目戸谷半兵衛光寿」の解説

通称戸谷 双烏1774年 - 1849年と言い幼名半次郎2歳の頃に父が没した為、祖父義父横山右衛門)の後見により家業振興没頭し、若いながら中屋隆盛期を築く(その祖父13歳の頃に亡くなる)。義父助力によって商才を研かれたとされる10代半ばより俳諧才能発揮し、高更(京都東山芭蕉堂を営む)や常世田長翠師事した俳号紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた簔庵(こみのあん)に招かれ8年間にわたり、本庄宿滞在する事となり、中央俳壇本庄宿根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物増えた。彼も祖父同様に公での名字帯刀許された。また、信心深く京都智積院境内石畳を、江戸真福寺には常夜灯寄進している。 彼の代で、江戸出店2軒、家屋敷江戸22か所、京都に3か所を所有。『関八州持丸長者富貴鑑』『諸国大福帳』などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ。 寛政4年1792年)に、陸奥常陸下総々へ小児養育費として50両、文化3年1806年)には公儀融通千両文化13年1816年)に足尾銅山不況おちいった際には、森田豊香と共に千両上納し困窮者の救済にあたり足尾銅山吹所世話役任命された。この他文政4年1821年)には岩鼻代官所支配々の旱魃救援百両拠出また、基金献金して伝馬運営資金充て神流川無賃渡し継続数々慈善事業をし、名字帯刀許された。

※この「三代目戸谷半兵衛光寿」の解説は、「戸谷半兵衛」の解説の一部です。
「三代目戸谷半兵衛光寿」を含む「戸谷半兵衛」の記事については、「戸谷半兵衛」の概要を参照ください。

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