三人衆・松永久秀との結託及び反目
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「三好義継」の記事における「三人衆・松永久秀との結託及び反目」の解説
家督相続時、重臣の松永久秀や三好三人衆が三好家の屋台骨を支えていた。本来の嫡男であった三好義興の早世、およびその後の安宅冬康の粛清など混乱の中で、家督継承をした若年の重存は権力地盤が弱かった。 永禄8年(1565年)5月1日、重存は義輝から「義」の字を賜って義重と改名、義輝の奏請により左京大夫に任官された。 しかし、5月18日、三人衆や松永久通(久秀の息子)を伴い京都へ上洛、翌5月19日、突如二条御所を襲撃し義輝を殺害した(永禄の変)。襲撃前夜の18日、義継は1万近くの手勢を引き連れて上洛したが、京都に緊迫感はなく、義輝も全く三好軍を警戒していなかった。白昼堂々軍勢を率いてきた三好軍に対して全く警戒していなかったことから、義輝殺害事件は偶発的に起こったのではないかという見解もある。この事件は久秀が主犯の殺害事件であるかのように後世には伝わっているが、久秀はこの時京都で義継らと共にはおらず大和国におり、義輝殺害に関与していない。軍勢を指揮していたのは義継や三好長逸と久通であり、このことから歴史学者の天野忠幸は義継を「義輝殺害事件の指揮者の一人」とみなしている。 義輝殺害事件の直後、名前を義重から義継へと改名している。天野はこの改名を示唆的な改名と解釈しており、「三好本家の当主が、武家の秩序体系において最高位に君臨する足利家の通字である『義』の字を『継』ぐ、と表明した」と解説、義継は足利将軍家を必要としない政治体制を目指したと推論している。 変後、キリスト教宣教師を京都から追放した。 だが、三人衆と松永久秀は不仲になり、三人衆は三好家の旗頭として義継を擁立、11月16日に三人衆が飯盛山に押し入り義継奉行人の長世軒淳世や金山長信を殺害、義継は三人衆によって飯盛山城から河内高屋城へ身を移され、義継は三人衆と共に久秀と戦うことになる。戦況は三人衆側が終始有利で、やがて三人衆が本国阿波から義輝の従弟に当たる足利義栄を呼び寄せると、三人衆や篠原長房ら三好政権首脳陣は義栄を次の将軍にすべく尊重する一方で義継をないがしろにしていった。このため、義継の側近達の間に不満が募り、義継の被官である金山信貞が、義継に三人衆や長房との手切れ並びに久秀との結託を教唆し、これを聞き入れた義継は永禄10年(1567年)2月16日に康長と安見宗房と共に出陣したと見せかけ、少数の被官を引き連れて三人衆のもとから逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶ。 『足利季世記』によると、義継は若輩故に実権を三人衆・長房・三好康長らに握られており、形式だけ総大将であるものの、将軍足利義栄は義継を冷遇し、三人衆・長房・康長らも義栄の所へばかり出仕するため、金山駿河守(信貞)が不満を抱いて義継に離反を促したとする。また、『足利季世記』は金山駿河守は義継の乳母の息子と伝える。また義継出奔直前に出された金山駿河守宛の篠原長房書状では義継が三人衆への不満を長房に相談したことが触れられており、出奔後の南山城国人椿井政定宛の義継書状でも三人衆を「悪逆無道」とし、松永久秀の「大忠」を見放せず離反したと述べている。 義継との結託により三人衆と久秀の争いは若干久秀が有利になったが、戦況の膠着は継続し決着はつかなかった。義継は大和で筒井順慶と結んだ三人衆と交戦、10月10日の東大寺大仏殿の戦いで松永勢が勝利し、久秀の勢力が持ち直す契機となった。
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