三人衆の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 06:33 UTC 版)
天正元年(1573年)8月、越前国を攻めた織田信長は朝倉義景を滅ぼし、信長に降伏した前波吉継を一乗谷に置いて越前国を治めさせ、同じく降伏した富田長繁を府中の政務に当たらせた。しかし、程なく吉継と長繁は敵対し、天正2年(1574年)1月に長繁が吉継を滅ぼして越前国を支配下に置いた。だが、この過程で長繁が扇動した一向一揆との対立が深まり、長繁も討ち死にして、越前国は加賀国同様「百姓の持ちたる国」と化した(越前一向一揆)。 天正3年(1575年)8月、信長は大軍をもって越前国に侵攻して一揆勢を殲滅し、再び支配下に収め柴田勝家に同国の八郡を与えて北ノ庄城に置いた。このとき、不破光治・佐々成政・前田利家が府中付近の二郡を与えられ、勝家の目付に任命された。これ以降、越前府中に在任していた間の3人を、一般に「府中三人衆」と呼ぶ。 ただし、『信長公記』によれば、二郡を与えられたのは「不破彦三」(光治の子直光)で、信長が発した「越前国掟書」で勝家の目付に任ぜられたのは「不破河内守」(光治)と書かれている。このことや、三人衆が二郡で政務に携わった文書の中には、直光が成政や利家と名を連ねたものもあることから、谷口克広は不破氏の場合は親子での三人衆参加と見ている。
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