一揆勢の体制と活動強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
宝暦7年(1757年)1月、帰国中の藩主金森頼錦に対して一揆勢は、三家老の免許状で約束した通りに検見法を取りやめることと、いまだに拘束されたままであった農民の釈放を求めた願書を提出する。そのような中、宝暦7年2月4日(1757年3月23日)讒言によって入牢していた中津屋村太郎左衛門が牢死し、他の入牢中の立者農民も衰弱が激しくなっていた。一揆勢は会合を開き、讒訴を行った者の家や庄屋に押しかけて赦免嘆願を行うよう圧力をかけた。金森頼錦は宝暦7年2月25日(1757年4月13日)、参勤交代により江戸へ向けて出立したが、庄屋らの嘆願もあり宝暦7年3月6日(1757年4月23日)、入牢者は釈放された。 この頃になると、一揆勢の中から選ばれ、一揆参加者の間で取り交わされた頼み頼まれ証文で誓約を行った歩岐島村四郎左衛門を中核とした帳元が、資金の割り当てや活動方針の取りまとめなど一揆全般の活動を取り仕切るようになり、一揆勢の組織整備も進んだ。そして一揆全体の活動を統括した歩岐島村四郎左衛門を中核とした帳元に対し、一揆の実行部隊として、気良村甚助、寒水村由蔵、向鷲見村五郎作(後に改名して吉右衛門)らが活躍するようになった。 宝暦7年(1757年)2月には、郡上郡内の一揆勢農民が白鳥那留ヶ野に集結してこれまでの一揆の経過について確認する中で、内々に相談してきた内容が藩側に漏れ、大勢の仲間が手鎖や入牢の処分を受けて苦しむことになったのは、立者から寝者へと寝返った上に藩側に情報を漏らした者たちのせいだという話となり、藩側に情報を漏らした寝者の代表的人物として24名が挙げられた。上之保筋ではさっそく寝者の代表として槍玉に挙げられた農民宅に乱入し、誤りを犯した旨の証文の提出を強要した上に米や麦を横領した。寒水村由蔵はこの時の行動が翌年の評定所の判決で獄門とされた一因となった。 宝暦7年3月7日(1757年4月24日)、帳元から一揆を進めるに当たり必要とされる資金の調達が言い渡された。この時、帳元から調達を指示された金額は郡上郡の年貢額の約1割に当たる1160両という大金であり、上之保筋、明方筋、下川筋それぞれに分担金が割り当てられることになった。すると上之保筋で寝者の家や庄屋宅に押し入って金銭の差し出しを強要する動きが始まった。この動きは上之保筋から明方筋へ、更には下川筋にも広がり、一揆勢に加担しない人々からも強引な金集めが行われた。そして郡上八幡城下の町名主のところにまで一揆勢は金の徴収に現れたが、藩から出された一揆勢からの金銭要求に応じてはならぬとの命に従うといって、町名主たちは要求を拒絶した。すると町名主から金銭要求を拒絶された一揆勢は、町方が所有する田畑の作物を勝手に収穫する挙に出た。 このような一揆勢の体制強化と攻勢の中、農民たちが立者に加入するケースが相次ぐようになった。宝暦7年(1757年)に立者に加入した中には村方三役が多く含まれ、特に宝暦7年(1757年)6月には上之保筋で63名という大勢の村方三役が立者に仲間入りした。
※この「一揆勢の体制と活動強化」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「一揆勢の体制と活動強化」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から一揆勢の体制と活動強化を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 一揆勢の体制と活動強化のページへのリンク