一千尺煙突構想とその挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「一千尺煙突構想とその挫折」の解説
大煙突と制限溶鉱によって激しい煙害は激減し、煙害の補償金支払額も大幅に減少した。煙害による負担が軽減され、日立鉱山は一息ついた形になったが、日立鉱山の経営者である久原房之助はここで安心しなかった。なぜならば大煙突完成当時、世界は第一次世界大戦の真っ最中で、銅需要は文字通りうなぎ登りであり、好景気も続いていた。そのため日立鉱山は製錬所の設備の増強に着手しており、銅生産高も急カーブで上昇していた。銅の製錬量の増加は亜硫酸ガスの排出量増大に直結する。大煙突の完成とその効果を確認する間もなく、久原は1,000尺(約303.03メートル)の超大煙突建設構想をぶち上げた。 そもそも1,000尺の大煙突については大煙突設計者の宮長平作が、もし511フィートの大煙突の煙害防止効果が思わしくなかった場合、さらに高い大煙突建設に踏み切らざるを得なくなる可能性があると考え、1,000尺程度の大煙突の設計を試みたことがあったという。大煙突の効果に自信を深めた久原は、日立鉱山における事業の更なる拡大を目指して新たに1,000尺の大煙突建設を構想し、まずは高層気象観測を命じたのである。 こうして1915年(大正4年)12月より高層気象観測が行われた、観測は係留気球を用い、気球を揚げた後、高度100メートルごとに5分間停止して気圧、気温、湿度、風向、風力などを計測し、天候が静穏な場合には1,400メートル程度まで観測を行った。そして気球による気象観測と同時並行で地上でも気象観測を行った。またゴム製の測風気球による観測も毎日2回、継続して実施した。この気象観測によって気温の逆転層の存在を確認し、さらには高度による海風、陸風の変化など、貴重なデータが集められた。しかし1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦は終結し、早くも1919年(大正8年)の銅生産高は減少に転じた。その後1920年(大正9年)からは深刻な不況期に突入することになる。戦争の終結と景気の後退は銅需要の低下をもたらし、日立鉱山の銅の製錬量も減少していったため、1,000尺の大煙突建設の必要性は消滅し、計画は中止となった。その結果、まず1919年(大正8年)11月末には高層気象観測の主要部門が廃止となり、ゴム製の測風気球による観測のみ高萩で継続されたが、1924年(大正13年)1月には完全廃止となった。
※この「一千尺煙突構想とその挫折」の解説は、「日立鉱山の大煙突」の解説の一部です。
「一千尺煙突構想とその挫折」を含む「日立鉱山の大煙突」の記事については、「日立鉱山の大煙突」の概要を参照ください。
- 一千尺煙突構想とその挫折のページへのリンク