ヴォーン・ウィリアムズとの協力関係
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「ロイ・ダグラス」の記事における「ヴォーン・ウィリアムズとの協力関係」の解説
ダグラスは1947年から作曲者が死去する1958年までの間、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの音楽上の助手、筆記者を務めた。彼の仕事の一つにはヴォーン・ウィリアムズの楽曲の判読可能な写譜の制作があった。この過程で彼は管弦楽法に関わる様々な未決の事柄を同定していき、ヴォーン・ウィリアムズのしばしば判読不能な草稿を解読した。そして彼は作曲者に様々な改善提案を行ったが、その多くが採用されることになった。彼らが協力して作曲したのは交響曲の「第6番」から「第9番」まで、オペラ「天路歴程(英語版)」、「チューバ協奏曲」などである。このようにして彼は作曲者の自筆のものより信頼性のある原稿を制作することができたのであるが、それは記譜上のあらゆる事柄を作曲者本人と議論して明らかにしたからであった。彼は「ヴォーン・ウィリアムズの音楽家としての技術を知る、最も重要な存命の目撃者」と評されている。 ダグラスは略記された楽譜の形でほぼ出来上がるまで、ヴォーン・ウィリアムズの新しい楽曲に触れることができないのが常であった。例えば、ヴォーン・ウィリアムズが「交響曲第6番」を作曲したことを彼が初めて知ったのは1947年2月13日付の手紙によってであったが、彼が総譜を渡されたのはそれからほぼ7か月後であった。 通常のやり方とは明らかに異なっていたが、ダグラスは「チューバ協奏曲」を締め切りに間に合うよう12日間で清書するように依頼された。しかし、作曲者のピアノ譜をチェックする機会がなかったため後になって楽曲に不確かな部分が生じ、これを明らかにせねばならなくなった。 時にダグラスのヴォーン・ウィリアムズの作品への関与は、単なる助手にとどまらないものだった。ヴォーン・ウィリアムズは、1952年にカンタータ「四季の民謡」(1949年)から編んだ管弦楽用の組曲がすっかりダグラスの作品であると考えた。そこで彼は組曲が自作を基にした自らの編曲でなく、ヴォーン・ウィリアムズの楽曲を下敷きにダグラスが作曲した作品として出版されるよう取り計らった。この曲は2012年に初めて録音されている。 この動画は音楽家共済基金によるダグラスのインタビューである。101歳になるダグラスが、ヴォーン・ウィリアムズと過ごした時期についてわずかに述べる部分がある。 2015年3月23日、ダグラスは107年の生涯を終えた。
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