ロシアからアメリカ合衆国への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:35 UTC 版)
「マーク・ロスコ」の記事における「ロシアからアメリカ合衆国への移住」の解説
1903年から1906年にかけ反ユダヤ襲撃ポグロムが盛んとなり、また、ヤコブ・ロスコウィッツは彼の息子がロシア帝国陸軍に招集されることを恐れていたため、アメリカへ移住することを決意する。マークと母、そして姉のソニアはまだロシアに残っていた。1910年に父が父の兄を頼って単身で渡米し、その2年後長男モイーズと次男アルバートが続いて渡米をする。その数か月後1913年の冬にエリス島に到着し、父と兄たちがいるアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移住した。エリス島からポートランドへ向かう汽車のなか、彼ら3人は胸に「われわれは英語がしゃべれません」というバッジをつけていたという。 父ヤコブは1914年3月に結腸癌で死に、家族は経済的な基盤を失うことになる。姉ソニアはレジのオペレーターをし、マーク自身も叔父の倉庫の一つで働きながら、新聞売りをしていた。進学したリンカーン高校では文学、哲学、社会学などに興味を示す一方、ギリシャ神話にも親しむようになる。1921年6月にポートランドのリンカーンハイスクールにて優秀な成績をおさめる。マークは、4つ目の言語である英語を学び同時にユダヤ人コミュニティーセンターで積極的な活動メンバーの一人となり、政治的議論を得意としていた。マークは父のように、労働者の権利や女性の権利などの問題について情熱を注いだ。彼は活動家のエマ・ゴールドマンの講演を聴きに西海岸のレクチャーツアーに参加した一人でもある。 1921年に奨学金を得てイェール大学へ進学する。大学では心理学を学び、ゆくゆくは法律家かエンジニアを目指していた。しかし新入生の終わりに奨学金の更新が出来なかったためウェイターや配達員をしながら勉強をしていた。マークは、イェールの学生の多くがエリート主義で差別主義者であることを知り、彼と彼の友人アーロン・ディレクターは学校の古風なしきたりやブルジョア趣味を風刺する風刺雑誌『イェール・サタデー・イブニング・ペスト』を発行する。いずれにしても、マークの性格は勤勉な学生よりも常に独学の人であった。ある学生が当時のマークについて「彼はほとんど勉強をしていないように見えたが、熱心な読書家だった」と語っている。2年の終わり1923年に彼は中退し、46年後に名誉学位を授与されるまで戻ることはなかった。
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