ロシアからの委嘱
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1861年、ヴェルディのもとに、当時のロシアの首都サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場から、新作オペラ作曲の打診がもたらされた。同劇場と契約して活躍していたイタリア人名テノール、エンリーコ・タンベルリック(Enrico Tamberlik、『イル・トロヴァトーレ』の有名なカバレッタ「見よ、恐ろしい炎を」で初めて高音ハイCを挿入したとされる歌手)の息子アキッレ・タンベルリック(Achille Tamberlik)が劇場からの作曲依頼状を持ってイタリアに帰国したのであった。作品の題材および台本作家の選定はヴェルディに一任する、との条件も含まれた魅力的な依頼であり、1861年6月、ヴェルディはマリインスキー劇場と作曲契約を交わした。実態はともかくも農奴解放も行ったアレクサンドル2世治下のロシアは、当時のイタリア各都市より検閲が比較的寛大だったが、「ロシア正教会への批判や、共和政への賛美を主張してはならない」といった制約は存在した。題材の検討に入ったヴェルディは当初、ヴィクトル・ユーゴーの『リュイ・ブラース』(Ruy Blas )を提案したが、王妃と平民の恋が描かれた同作は、帝室歌劇場での上演には過激と見なされて劇場側の賛成は得られず、別の題材を検討した結果、ヴェルディは以前から関心を抱いていた、リバス公ドン・アンヘル・デ・サーベドラ(1791年 - 1865年)の戯曲『ドン・アルバロ、あるいは運命の力』のオペラ化を提案することにし、演目が決定する。
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