ロシアからの出国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:25 UTC 版)
「タマラ・ジェーワ」の記事における「ロシアからの出国」の解説
結婚生活の初期、バランチヴァーゼは振付家として売り出し始めていた時期で、1923年から翌1924年春まで多数の公演のために多様な振付を手掛けていた。彼は1920年からすでに振付を始めていたが、独創的な傾向が強く旧来の枠組みに散らわれない作風に関してアキム・ヴォルィンスキー(英語版)などの保守的な評論家や国立劇場の上層部からの反応は冷ややかなものであった。彼らにとってバランチヴァーゼやカシヤン・ゴレイゾフスキー(英語版)などの新しい振付家は「異端者」であり「脅威」であった。 日々増大していく圧迫感から逃れるために、バランチヴァーゼはロシアを離れるという手段を取った。このとき出国の手助けをしたのは、ウラジーミル・ドミートリエフ(ディミトリエフ)という元オペラ歌手だった。彼は歌手3人、指揮者1人、ダンサー4人という小編成の一座を組織し、ドイツ巡業の許可を取った。メンバーはバランチヴァーゼ、ジェーワ、アレクサンドラ・ダニロワとそのパートナーのエフィモフだった。ロシアを出国する際、彼女は姓をそれまでの「ジェヴェルジュエワ」から「ジェーワ」に短縮している。 ドイツ巡業は大好評で迎えられたが、ベルリンに到着した頃、ロシア当局から「タダチニ キコクセヨ」という電報が届いた。一座の歌手と指揮者は帰国の道を選んだが、ダンサー4人とドミートリエフは亡命という手段を選んだ。 一座はその後、ロンドンのエンパイア劇場で1か月の契約を結んだものの、ヴォードヴィルショーでは勝手が違い、「テンポが悪い」と不評であった。一座は2週間で契約を打ち切られ、イギリスを離れてパリに渡ることになった。彼らはレピュブリック広場に面した安宿にひとまず落ち着いたものの、数日の間にバランチヴァーゼ以外の全員がふさぎ込む事態に陥った。ジェーワによれば「彼はあいかわらず哲学者のように平静で、まるで運命が明るい未来を用意してくれていると信じているようにみえた」という。 一座の苦境を救ったのは、セルゲイ・ディアギレフからの電報であった。電報には明日オーディションに来るように、と記されていた。ディアギレフが主宰するバレエ・リュスについてはオリガ・スペシフツェワやタマーラ・カルサヴィナを通じてロシア国内にも情報が届いていたので、ダンサー4人はオーディションを受けに行くことにした。 ディアギレフはバランチヴァーゼの振付を一瞥してその才能に注目し、他の3人もバレエ・リュスに雇い入れた。間もなくバレエ・リュスの座付き振付家だったブロニスラヴァ・ニジンスカが退団し、当時21歳のバランチヴァーゼが後任となった。以後、バランチヴァーゼは「ジョージ・バランシン」と名乗って活動することになった。
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