ロケット開発への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:14 UTC 版)
「セルゲイ・コロリョフ」の記事における「ロケット開発への参加」の解説
1945年にコロリョフは初の栄誉勲章を受け、赤軍では大佐の階級を与えられた。同年、第二次世界大戦直後のドイツに飛び、ペーネミュンデ研究所で作られていたドイツのV-2ロケットの情報収集を行った。1946年には5000人のドイツ人技術者をソ連国内に移送させたが、この技術者達は比較的良い扱いを受け、彼らは1947年にV-2の改良型のR-1多弾頭型ロケットを打ち上げた。しかし、同年にコロリョフが設計したR-2ロケットはV-2の倍の飛行距離を記録した。ドイツ人技術者達は1954年から1956年にかけて東ドイツに帰国する事になった。その後、グルシュコの設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航したが、1953年にはR-5で射程距離1200キロメートルの中距離弾道ミサイルの開発に成功し、さらに1957年8月にはR-7の実験に成功し、模擬弾頭をカザフスタンのバイコヌールから極東のカムチャツカ半島に到達させた。R-7は射程が7000キロメートルと長距離で、早速ICBMとして配備され、ソ連は太平洋(北極海)を超えてアメリカ本土を直接攻撃できるようになった。 なお、コロリョフは1950年4月にカリーニングラードの第88研究所 (NII-88) 内に設置された第1設計局 (OKB-1) の主任設計者に任命され、1952年にはソ連共産党に入党して研究開発に必要な資金が国家から援助されるようになり、1957年4月には1938年の逮捕と裁判が不当と認められて名誉回復にこぎ着けた。一方、1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれたが、強制労働中は引き離され、解放して再会した後の1948年には離婚して、若いニーナと1949年に再婚した。
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