リーニエンヴァルの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 19:14 UTC 版)
「リーニエンヴァル」の記事における「リーニエンヴァルの建設」の解説
トルコ軍とハンガリー・クルツ反乱軍(de:Kuruzen)への備えのため、1704年、皇帝レオポルト1世の指示によりリーニエンヴァルの建設が始まった。これは「クルツ堡塁(ドイツ語版)」(Kuruzzenschanze)と呼ばれる軍事施設の一部を成すものだった。この堡塁設備はハンガリーとの境界線上に設置された防衛ラインで、計画された全長は約200㎞だが、全工程の完成は果たせずに終わった。ライタ川とモラヴァ川沿いを通ってノイジードラー湖までを結んでおり、その一部がウィーンにも設置された形となっていた。 1704年6月11日、ウィーンへ攻め寄せてきたクルツ反乱軍を2600人の市民と150人の学生がリーニエンヴァルで食い止めることに成功した。 構造としては、土壁の上部に防御柵を設けて強化し、前面部(外縁)には堀が巡らされた。現在の地図で言うと、南から北へ、3区・ザンクトマルクス地区のドナウ運河から9区のリヒテンタールまでを結ぶラインである。軍事上の利点からジグザグに配置されていた。おおよそ、1850年にウィーン市に編入されたフォアシュタット新市街(現在の3区から9区まで)と、1892年に編入のフォアオルト郊外村(現在の10区から19区まで)との間の境界線となっていた。 建設工事には、旧市街(現在の1区に相当)とフォアシュタット新市街に住む18歳から60歳までの全ての市民が動員され、自ら参加するか、代理人を立てて出すことが求められた。この大規模な人員動員により、高さ4メートル、厚さ4メートルの壁の建設は4ヶ月で完了した。壁の前面には深さ3メートルの堀が掘られ、全長は約13.5㎞に及ぶものとなった。壁の内外を結ぶ道路上には門、跳ね橋、リーニエ庁(Linienamt)の官舎が設置された。周囲の土地はやがて各地の地名に「リーニエ」を冠して呼ばれるようになった(例えば、ベルヴェデーレ宮殿沿いの通りの延長線上にあるリーニエは「ベルヴェデーレ・リーニエ」、など)。1738年、土盛りの壁をレンガで補強する工事が実施された。
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