リセの教員、小説家
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「ジャン=リシャール・ブロック」の記事における「リセの教員、小説家」の解説
翌1907年に歴史学・地理学のアグレガシオン(大学教授資格)を取得し、1907年から1908年まで、ブルゴーニュ地方ジュラ県のロン=ル=ソーニエ、次いで1909年までヴィエンヌ県ポワティエ(ヌーヴェル=アキテーヌ)のリセで教鞭を執った。この傍ら、戯曲、短編などを多数執筆し、しばしばスイスに滞在し、ベルギー、英国、ドイツ、イタリアなどを訪れたが、1910年に執筆活動に専念するために教員を辞任し、1911年にポワティエ郊外に家を購入し、「ラ・メリゴット(La Mérigotte)」と名付け、以後、画家ベルナール・ノーダン(フランス語版)やガストン・ティーソン(フランス語版)、ベルトルド・マーン(フランス語版)、ディエゴ・リベラ(メキシコ)、作家ルイ・アラゴン、ロマン・ロラン、ジュール・ロマン、シュテファン・ツヴァイク(オーストリア)ら多くの芸術家を迎え入れ、スペイン内戦中はスペインからの亡命者の隠れ家となったが、第二次大戦中にユダヤ人の財産としてナチス・ドイツに没収されることになる(後述)。 1908年、24歳のときに最初の戯曲『心配性(L’Inquiète)』を執筆し、オデオン座の責任者アンドレ・アントワーヌに送ったところ、以後、アントワーヌとの手紙のやり取りが始まり、1911年に上演の運びとなった。1911年に執筆した最初の短編「レヴィ」はドレフュス事件をきっかけに追究してきた反ユダヤ主義の問題を扱った作品であり、同年、『新フランス評論(NRF)』(1908年にアンドレ・ジッドらによって創刊され、1912年までジッドが編集長を務めた文芸雑誌)に発表され、翌1912年に『レヴィ - 第一短編集』としてNRF出版社から刊行された。さらに、1914年に書き上げた小説『…会社』(第一次大戦のために発表が遅れ、1918年に刊行)もドレフュス事件を背景にユダヤ人の社会的・文化的排除を扱った作品であり、併せて、アルザス=ロレーヌ併合後にアルザスからフランスに移住して家業再建に取り組んだユダヤ人一家を描くという自伝的(家族史的)な小説である。
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