リジェ/プロスト時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 03:28 UTC 版)
「オリビエ・パニス」の記事における「リジェ/プロスト時代」の解説
F1には1994年にフランスのリジェからデビューを果たした。同年はオーナーが逮捕されるなどのドタバタが相次ぎ、マシン開発が停滞したものの、ドイツGPで2位に入り初入賞、及び初表彰台を記録。最終的にこれを含めた入賞は2回だったが、チームメイトでベテランのエリック・ベルナールをシーズンを通して上回り、16戦中15レースで完走した(第13戦ポルトガルGPは完走したものの、スキッドブロックの規定に引っかかり失格したため、それを除けば16戦中14戦完走)。F1デビュー当時は英語が上手く話せず、グランプリの記者会見では通訳と同伴した。 新たに無限ホンダエンジンを獲得した1995年は、最終戦オーストラリアGPでは終盤、首位走行のデイモン・ヒルから2周遅れながら2位を走行中に、車両から白煙を吹いたが、最後までマシンを労わりながら走行し、2位表彰台を飾った。上記での2位表彰台を含め、他にも2度の4位を記録するなど同年は16ポイントを獲得しランキング8位を記録した。 1996年はチームの資金繰りが悪化し、マシンも前年の改良型を使用する等苦しい戦いを強いられたが、サバイバルレースとなったモナコGPで、14番手スタートながら優勝した。これはパニスのF1キャリアで唯一の勝利であるとともに、リジェにとってF1での最終勝利、無限エンジンにとってのF1初優勝でもあった。 翌1997年、リジェはアラン・プロストに売却されプロスト・グランプリに改称され、パニスはチームに残留した。この年から新規参入したブリヂストンタイヤのユーザーでは最も競争力があり、第2戦ブラジルGPで3位、第6戦スペインGPでは2位に入るなど好調を維持した。しかし、カナダGPの決勝レース中にコンクリートウォールに激突して両足を骨折。このカナダGP開幕時点でランキングは3位だったが、シーズンは事実上終了してしまった。シーズン終盤のルクセンブルクGPから復帰し、最終3レースに参戦したが、この3レースでの入賞はルクセンブルクでの6位だけで、最終的なランキングは9位に終わった。 1998年もプロストに残留したが、新たにプジョーエンジンを搭載したマシンの競争力にマシンの競争力に苦しめられた。パニスはキャリア唯一の無得点に終わり、チームの得点も、チームメイトのヤルノ・トゥルーリが獲得した1ポイントのみに終わった。 1999年もプロストから出走したが、この年も前年よりはマシになったものの、マシンの競争力に苦しんだ。フランスGPでは予選3位、日本GPでは予選6位を記録し、決勝では一時3位を走行する場面が見られたが、シーズンを通じてはトゥルーリに遅れを取る場面が目立ち、獲得したポイントは2にとどまり、この年限りでリジェ時代を含めて6年間過ごしたプロストから放出。翌2000年のシートは決まらず、浪人生活を送ることとなった。
※この「リジェ/プロスト時代」の解説は、「オリビエ・パニス」の解説の一部です。
「リジェ/プロスト時代」を含む「オリビエ・パニス」の記事については、「オリビエ・パニス」の概要を参照ください。
- リジェ/プロスト時代のページへのリンク