劉琦
リュウキ | ||
はじめ風貌が父に似ていたので、劉表は劉琦を大変可愛がっていた。しかし異母弟劉琮が生まれると、その母で劉表後妻の蔡氏は毎日劉琦の悪口を言ったので、劉表も彼女を信じて劉琮を可愛がるようになった《後漢書劉表伝》。 身の危険を感じた劉琦は諸葛亮に相談しようとしたが、諸葛亮は答えようとしなかった。そこで劉琦は彼と一緒に高楼に昇り、部下に命じて梯子を取り外させた。そこで劉琦が言うには、「いま上は天に届かず、下は地に届かず、あなたの口から言葉が出ても私の耳に入るばかりです」。諸葛亮は答えた。「貴君は申生が内にいて危難に遭い、重耳が外にいて安全だったことをご存じではないですか」と。劉琦はその言葉の意味を悟り、密かに計画を練った。ちょうど江夏太守黄祖が孫権に殺されたので、劉琦はその後任になることを願い出た《諸葛亮伝・後漢書劉表伝》。 こうして江夏郡に出たが、建安十三年(二〇八)に劉表が危篤になったと聞くと、もともと孝心篤い人だったので帰省しようとした。蔡氏の外甥張允らは、劉表が彼に会って父子の情愛を起こし、後事を託すのではないかと恐れ、劉琦に「将軍は貴君に江夏鎮撫の重任をお命じになられました。いま貴君がお帰りになったことを知れば必ずお怒りになり、将軍のお体にさわりましょう。それは孝行の道から外れたものですぞ」と言い、戸外で劉琦を遮った。劉琦は涙を流して江夏に帰っていった。人々はそれを聞いて悲しんだ《後漢書劉表伝》。 弟劉琮が跡を継いで、劉琦に侯の印を授けた。劉琦は怒って印を地に投げ捨てた。出奔してしまおうと考えたとき、曹操が荊州攻めを開始して新野に入ったので、劉琦は長江の南に逃れた。また樊城に駐屯していた劉備も長阪で敗れ、劉琮は曹操に降服した《後漢書劉表伝》。 劉備は夏口に逃れ、ここで劉琦軍一万と合流した。劉備は孫権と結んで赤壁において曹操を破り、劉琦を荊州刺史に任ずるよう上表した。翌年、劉琦は病没した《先主伝・後漢書劉表伝》。 【参照】黄祖 / 蔡氏 / 諸葛亮 / 申生 / 曹操 / 孫権 / 重耳 / 張允 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 夏口 / 荊州 / 江夏郡 / 新野県 / 赤壁 / 長江 / 長阪 / 樊城 / 侯 / 刺史 / 太守 / 牧 / 印 |
柳毅
リュウキ | (?~205?) | |
公孫度の吏。 遼東太守公孫度に仕えて彼の親愛を得た。初平元年(一九〇)、中原で兵乱が起こっていることを知った公孫度は、柳毅・陽儀らに「讖書に『孫登が天子になる』とあるが、太守の姓は公孫であるし、字が升済で、『升』とは登るということだ。いまや漢の祚は絶えんとしている。諸卿らとともに王者への道を行きたいものだ」と語っている《公孫度伝》。 「王者への道を行く」の原文は「図王」。霸道に対する王道を指すものかも知れない。 公孫度は勃海を渡って東萊郡の諸県を攻略し、新たに営州刺史を設置した《公孫度伝》。幽州の精兵が徐州で騒乱を起こして北海城まで到達すると、北海の領民はみな恐慌状態に陥った。北海国相孔融は官舎を出て彼らを説得して二心を抱かせないようにした。別働隊長と計画し、幽州軍に夜襲をかけた。幽州軍は敗北して全てが捕虜となった。しかし、またすぐに離叛して逃亡した《崔琰伝》。 建安十年(二〇五)正月、曹操は袁譚を斬ると、行中堅将軍張遼を派遣して海浜地帯を平定させた。柳毅はこのとき張遼に敗れた《張遼伝》。 前に公孫度が東萊郡を攻略したという記事に基づき、『崔琰伝注』に見える「幽州の精兵」は公孫度の軍勢で、柳毅はその統率者として「東萊郡の海浜地帯」に留屯し、袁譚に協力していたと見るべきではないだろうか。張遼が東萊郡の賊を討伐していることは『何夔伝』にも見える。孔融は遼東から軍馬を買い付けて山東に売却することで利益を図ったというが《崔琰伝》、柳毅がその交渉の窓口になっていた可能性もある。 【参照】孔融 / 公孫度 / 曹操 / 張遼 / 陽儀 / 営州 / 徐州 / 中原 / 東萊郡 / 勃海 / 北海国 / 幽州 / 遼東郡 / 刺史 / 相 / 太守 / 中堅将軍 / 行 / 讖書 |
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