ランナー歴―元祖シンデレラガール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 14:58 UTC 版)
「宮原美佐子」の記事における「ランナー歴―元祖シンデレラガール」の解説
高校時代は陸上部に所属し、800m・1500mの選手だったが、全国で活躍するほどではなく、一般のOLとして旭化成に入社する。ところが、社内のジョギング大会に参加した時に実業団・旭化成陸上部の当時の監督であった宗茂の目にとまり、そのまま同社の陸上部に入部。同陸上部のある宮崎県延岡市の延岡支社に移り、宗茂・猛らの指導の下に本格的に競技生活を始める。1982年11月第4回東京国際女子マラソンでデビュー。タイムは3時間14分20秒で完走48名中38位であった(同大会にはのちに同じくソウルオリンピック代表になる浅井えり子も走っている。) 全国都道府県対抗女子駅伝では宮崎代表として1983年の第1回大会から第5回大会までと第7回大会の計6回出場。全日本実業団女子駅伝では1982年の第2回大会は九州実業団チームで(大会設立当初は女子単独でチームを組める実業団がほとんどなく九州実業団など混成チームがほとんどだった)、第3回からは旭化成で出場。区間賞を二度獲得するなど、日本の女子駅伝創成期に活躍し、大会を盛り上げた。 1985年11月の東京国際女子マラソンでは6位入賞、1986年6月に開催された日本選手権女子10,000mで初優勝。同年10月のアジア大会女子マラソンでは、優勝の浅井えり子に惜しくも敗れたものの2位となり銀メダルを獲得、注目され始める。翌1987年1月大阪国際女子マラソンでは、自己ベストを約6分も更新する当時日本女子歴代2位の記録をマークし、優勝のロレーン・モラー(ニュージーランド)、2位のリサ・マーチン(オーストラリア)に次いで3位入賞と健闘した。 ソウルオリンピック代表選手選考会を兼ねた、1988年1月の大阪国際女子マラソンでは、日本女性として初めて2時間30分の壁を破る、2時間29分37秒の日本女子最高記録をマーク、優勝したリサ・マーチンに次ぐ2位入賞を果たした。同時に荒木久美、浅井えり子とともにソウルオリンピック女子マラソン代表の座を獲得する。一般のOLだった市民ジョガーから一気に五輪代表まで駆け上がった宮原は、その当時シンデレラガールと称された。 しかし、期待された1988年9月のソウル五輪ではプレッシャーや調整失敗の影響と、さらにレース前日に腹痛を起こす体調不良も起こしてしまい、メダルも入賞争いにも全く加わる事が出来ずに29位と惨敗。他日本女子選手は浅井が最高で25位、荒木も28位に終わる。このころの女子長距離界は、まだ日本と世界の壁はあまりにも大きかった。 ソウル五輪後の翌1989年5月、ミラノワールドカップマラソンでは、2時間35分16秒のタイムで女子2位となり、日本女子初入賞を果たす。他国の国際レースで日本女子が入賞したのは、宮原が初めてであった。 1989年11月の東京国際女子マラソンへの出走を最後に現役引退することを決意。引退レースでは前半で足の痙攣に襲われ、途中ナンバーカードにつける為の安全ピンを外して太股を突き刺すなどで、痛みとの戦いの走りとなった。優勝争いには全く加われなかったが、それでもなんとか完走して14位、最後は笑顔でゴールとなった。
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