酒屋通り
(ラムロウ から転送)
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酒屋通り(Rum row)は、アメリカ合衆国における禁酒法の時代に、ヨーロッパで製造された酒を積んだ密輸船が停泊していたアメリカ領外地域の通称である。一般にはニュージャージー州からロングアイランド島のモントーク岬にかけての沖合いを指す[1]。
概要
飲料用アルコールの製造販売を禁じたアメリカ合衆国憲法修正第18条は1917年12月18日に議会を通過し、批准のために各州へ送付された後に、ミシシッピ州をはじまりとして順次承認されていった。同時に、執行法であるボルステッド法も1919年10月28日に成立し、1920年1月17日よりいわゆるアメリカにおける禁酒法の時代が始まった。
これに伴いアメリカでは酒類の密輸・密造・密売が横行するようになった。当時の合衆国外周18,700マイルは、どこでも密輸入酒の搬入経路となったが、需要供給の関係からいくつかの経路に集中するようになり、ニューヨークやボストンが位置する北大西洋ルートはその主要な経路のひとつとなった[2]。
ヨーロッパから大西洋を渡ってやってきた密輸船はアメリカ領海外上に連結して停泊し、ここに密輸業者より依頼を受けて海岸より小船を出して買い付けに来る方式が取られた。海上での取引を揶揄して、いつしかこうした取引が行われる地域を「酒屋通り(ラム・ロウ)」と呼ぶようになった[1]。
ラム・ランナー
アメリカ側から酒屋通りに向かう小船はラム・ランナーと呼ばれ、荷受は主として漁師が副業として従事した。荷受業は「危険を伴うが儲かる仕事」として人気を博し、ロングアイランド島はラム・ランナーのメッカとなった[1]。
ラム・ランナーには漁師が持つスクーナー型の漁船がそのまま使用されることが多かった。帆船であるがゆえに速度が遅く、警備艇に拿捕される率は非常に高かった[1]。このため、積荷をカモフラージュするため、船底を二重化したり、潜水艦と呼ばれるタンクに酒を入れて海中を牽引したりと、様々な仕組みが考案されるようになった[3]。密輸業者として多大な富を築いたウィリアム・マッコイは積荷面積を大幅に縮小する麻布縛り(バーロック)を考案し、同時代の多くの同業者に広まった[3]。
規制の強化
無法化する大西洋岸での取締まり強化を目的としてアメリカ政府は1924年、沿岸警備隊の補強予算として1400万ドルもの予算を成立させた。これによって高速警備艇やモーターボートが取り入れられたほか、海軍より20隻の魚雷駆逐艦と2隻の掃海艇を譲り受け、ラム・ランナーに対抗しようとした[4]。
また、北大西洋ルートを通る密輸業者にはイギリス人を中心とした組織が多くあったことなどから、1922年ごろよりイギリス政府へ働きかけをはじめ、1924年1月、ワシントンにて密輸入酒会議が開催され、領外拿捕に関する政府間条約が取り付けられた[4]。これによってアメリカの海岸線から1時間以内で到達できる航行距離内においてアメリカ係官による臨検、積荷の押収、船舶の拿捕が行えるようになった。同様の条約は順次、デンマーク、ノルウェー、パナマ、フランス、ドイツ、オランダ、カナダなどとも締結された[5]。
こうした警備体制の強化により、1921年には23隻だった密輸船捕獲数は1927年には353隻となり、酒屋通りでの密輸行為は激減した[5]。当時の財務長官であったアンドリュー・メロンは「悪名高い酒屋通りを全て排除した」と宣言するに至った[5]。
脚注
参考文献
- 岡本勝 『禁酒法 - 「酒のない社会」の実験』 講談社現代新書、1996年。ISBN 4061492845。
- 笹田直人、堀真理子、外岡直美編著 『概説アメリカ文化史』 ミネルヴァ書房、2002年。ISBN 9784623034918。
- 岡本勝「<研究ノート>「高貴な実験」の終焉 : 全国禁酒法の廃止過程」、『同志社アメリカ研究』第29巻、同志社大学、1993年3月25日、 47-61頁、 NAID 110000198884。
- 高村宏子「アメリカの禁酒法をめぐる米加関係」、『東洋女子短期大学紀要』第23巻、東洋学園大学、1991年3月15日、 65-78頁、 NAID 110000203187。
関連項目
ラム・ロウ
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マッコイは、大型ボートをアメリカ管轄区域の3マイル(4.8km)の境界の端に持ってきて、そこで自分の製品を「コンタクト・ボート」ら("contact boats")、地元漁師ら、そして小型ボート船長らに販売するという着想の功績がある。それら小さく速いボートは、沿岸警備隊の船をより簡単に追い越し、小さな川や渦でドックし、貨物を待機中のトラックに移すことができた。それらはまた、フロート飛行機や飛行艇を積み込むことでも知られていた。すぐに他の人々が追随し、3マイル(4.8km)の制限は「ラム・ライン」("Rum Line")として知られるようになり、待機中の船は「ラム・ロウ」("Rum row")と呼ばれた。ラム・ラインは、1924年4月21日の米国議会の法により、12マイル(19.3km)の制限まで延長された。そのため、小型で耐航性の低い船は旅行をするのが難しくなった。 ラム・ロウが、沿岸警備隊の唯一の前線ではなかった。酒類密輸船はしばしば、カナダを経由して五大湖およびセントローレンス水路を経由し、西海岸を下ってサンフランシスコとロサンゼルスに行った。カナダからの酒類密輸入もまた、特に1900年代初頭の禁酒法を通して、問題であった。カナダには多くの蒸留所があったし、最も有名な存在の1つはHiram Walkerで、Canadian Club Whiskyを開発した。ニューファンドランド島の南に位置するフランスのサンピエール島・ミクロン島の島々は、アル・カポネ、サバンナ・アンノウン、ビル・マッコイをふくむ有名な密輸業者らが使用する重要な基地であった。メキシコ湾はまた、メキシコとバハマから、テキサス州ガルベストン、ルイジアナ沼地、そしてアラバマ海岸まで走る船であふれていた。群を抜いて最大のラム・ロウは、ニュージャージー海岸沖のニューヨーク/フィラデルフィア地域にあったし、そこでは一度に60隻もの船が見られた。最も注目に値するニュージャージーの酒類密輸犯の1人はハバナ・ジョーであった[要出典]し、彼は夜、平底のスキフ船でラリタン湾の遠隔地に駆け込み、浜辺に駆け寄り、配達し、急いで逃げるのを見ることができた。 そんなに多くの競争で、供給者らはしばしば、自分らの製品を宣伝する大きな旗を掲げ、娼婦らと一緒に船上パーティーを開いて顧客らを引き付けた。ラム・ロウは完全に無法であったし、多くの乗組員は政府の船に対してではなく他の酒類密輸犯らに対して武装したし、彼らはときどき、新鮮な物資を求めてカナダあるいはカリブ海に逃げるのでなく、船を沈め貨物を強奪したものであった。
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