ヨーロッパおよび地中海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 02:50 UTC 版)
「タラソクラシー」の記事における「ヨーロッパおよび地中海」の解説
上述のほかにも、紀元前478年に発足したデロス同盟といった古代の例は多くあり、中世にも複数のタラソクラシーがあったが、それには海を支配した陸上帝国も含まれることがあった。最も有名なものはヴェネツィア共和国であり、15世紀には慣習的に、ドガード(英語版)とラグーン、北イタリアにあるドミニ・ディ・テッラフェールマ(英語版)、そして海に囲まれた辺境のスタート・ダ・マールに分けられた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これはポルトガル帝国や後のインド洋におけるオランダ海上帝国とは規模が大きく異なるものの、似たような散在した帝国であった。その交易帝国は長い資本主義の触角を形成しており、古代における類似した「フェニキアモデルの」帝国であった。 中世前期における南イタリア沿岸都市の多くはその最高権力を港湾部に置き、友好国の海岸を防衛し敵勢力の海岸を破壊するための海軍を動かす能力を持つ、小規模なタラソクラシーへと発展した。これらにはガエータ公国(英語版)、ナポリ公国(英語版)、サレルノ公国(英語版)、アマルフィ公国といった様々なギリシャ人やランゴバルド人の公爵領が含まれる。 1000年以後の北および中央イタリアはピサや、特にヴェネツィアに匹敵する強大なジェノヴァ共和国などを基盤として独自の貿易帝国を発展させた。これらの都市はアマルフィ、ガエータ、アンコーナ、そしてダルマチアのラグサ共和国などとともに海洋共和国(英語版)(repubbliche marinare)と呼ばれる。 また、オスマン帝国も陸上を基盤とした地域から東地中海(アジア、ヨーロッパ、アフリカ)を支配するようになり、15世紀からはタラソクラシーとしてインド洋へ拡大していった。 もっとも恐るべきタラソクラシーが出現したのは近世の大航海時代であり、ヨーロッパの領土を軸として、複数の国家がその海軍の優位性により植民地帝国を築き上げた。その先駆けはポルトガル海上帝国であり、間もなくスペイン帝国がその後を追った。スペインはオランダ海上帝国の挑戦を受け、その後公海上では当時最大の海軍と広大な領土を有したイギリス帝国に取って代わられた。1550年には『戦史』が英語に翻訳されたことを受け、エリザベス1世治世下におけるイギリスの海軍戦略は、古代ギリシア語を研究しトゥキディデスの著作を読んだジョン・ディーやマシュー・サトクリフ(英語版)をはじめとする顧問らの思想に影響を受けた。やがて建艦競争(特に英独間)、植民地主義の終焉、そして植民地の独立承認などのため、フォークランド紛争におけるイギリスの戦力投射は引き続き存在するそのタラソクラシーの影響力を実証したものの、何世紀にもわたって世界の海を支配してきたヨーロッパのタラソクラシーは消滅した。
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