メトロポリターノとナシオナル(1967-1985)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:27 UTC 版)
「プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)」の記事における「メトロポリターノとナシオナル(1967-1985)」の解説
1967年には単一シーズン制が廃止され、暦年の1年が2つの短期リーグ(メトロポリターノとナシオナル)に分割された。トルネオ・ナシオナルの創設者でアルゼンチンサッカー協会会長だったバレンティン・スアレスは、首都ブエノスアイレスなど一部の大都市圏のみがプロサッカーの利権を独占していることに批判的な考えを持っており、これを「連邦化 (全国への門戸開放)」するための改革を行ったのである。メトロポリターノはこれまで通り協会に正式加盟しているクラブにのみ参加が許され、ナシオナルは地域大会を勝ち上がったいわゆる「間接加盟」または「内陸」と呼ばれる地方クラブにも開かれた。この大会形式の変更はアルゼンチンサッカー界に大変革をもたらし、最初にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタが、やがてCAベレス・サルスフィエルドやCAチャカリタ・ジュニアーズやその他のクラブがビッグ5のリーグ支配を打ち破った。また優勝には手が届かなかったものの、CAタジェレスやラシン・デ・コルドバが準優勝を飾り、その後に州リーグからメトロポリターノに特別措置で参入を認められた。選手個人レベルでもこの時代にトルネオ・ナシオナルでの活躍をきっかけに、マリオ・ケンペスら多くの「内陸」育ちの選手がキャリアアップを勝ち取った。1967年から1969年まで、メトロポリターノに出場するクラブはAとBの2グループに分かれ、各グループの上位2クラブずつが決勝トーナメントに進出して準決勝と決勝を戦った。グループA/Bそれぞれの上位6クラブずつの計12クラブと、地区協会からの4クラブがナシオナルに参加し、1回戦総当たりで優勝クラブを決定した。また、グループA/Bそれぞれの7位と8位に加えて地区協会から4クラブが参加したプロモシオナル(昇進リーグ)も行なわれたが、1969年からは地区協会のクラブはプロモシオナルに参加しなくなった。グループA/Bそれぞれの9位から12位のクラブはレクラシフィカトリオ(順位決定リーグ)に参加し、レクラシフィカトリオの成績によって降格クラブが決定された。1970年にはメトロポリターノ/ナシオナルそれぞれの大会形式が修正され、メトロポリターノが1回戦もしくはホーム&アウェーの総当たり戦になるとともに、ナシオナルはプレーオフをともなうグループリーグ制となった。1974年、1976年、1979年のメトロポリターノは例外であり、プレーオフをともなうグループリーグ制で行なわれた。1971年にはメトロポリターノの上位クラブがナシオナルの出場権を得る大会形式が廃止され、さらにプロモシオナルやレクラシフィカトリオも廃止されたため、メトロポリターノとナシオナルは出場クラブ資格や性格の異なる短期リーグではなく、性格の似通った2つの短期リーグとなった。1972年シーズンのみは旧方式が復活したが、1973年シーズンからは再び1971年シーズン方式が採用され、1985年まで同様の方式が続いた。1981年までは暦年の前半にメトロポリターノ、後半にナシオナルが行なわれていたが、1982年からは暦年の前半にナシオナル、後半にメトロポリターノが行なわれた。
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