メッツガーとメラーの脚本
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「ユダヤ人ズュース (1940年)」の記事における「メッツガーとメラーの脚本」の解説
ルートヴィヒ・メッツガーは1921年以来、ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーの生涯を描いた映画の企画を動かそうとしていたが、成功してはいなかった。フォイヒトヴァンガーの本の出版とそれをメンデスが映画化したことで、メッツガーはプロジェクトを進めることができず苛立たっていた。 1939年の1月か2月には、Terra Film(以下テラ社)の脚本家となったメッツガーは”Central Rio"の脚本に共同で取り組んでいたヴォルフガング・エベッケに自分の考えを述べた。エベッケは同じテーマのメンデスの英国映画の存在や、ドイツの観客が反ユダヤ主義ではないファイヒトヴァンガーの小説と混同するかもしれないといった懸念を含む多くの反対意見を述べて彼のアイデアを却下した。 エベッケの反対にめげず、メッツガーは自分のアイデアをテラのストーリーエディターであるタイシに持ち込んだが、再び断られた。最後に、メッツガーはゲッベルスに直接接近し、そこで彼の提案は「爆弾が標的に当たった」ように受け取られた。タイシは、テラ社がメッツガーの提案を進める必要があると知らされたので、彼はしぶしぶスタジオの責任者にそのアイデアを提示した。スタジオヘッドがプロジェクトの承認を拒否すると、ゲッベルスは彼を解雇し、代わりに映画の制作経験のないマイナーな監督であるペーター・パウル・ブラウアーを起用した。スタジオの責任者としてブラウアーは自分自身を映画の監督にした。しかし、プロジェクトは、出演者の確保や、ゲッベルスが納得する脚本を作成できない等の様々な理由で行き詰まった 。 ゲッベルスの指示で、メッツガーはテラ社と映画の脚本を書く契約をした。彼は、知名度の高い1925年のフォイヒトヴァンガーの小説ではなく、 1827年のハウフの中編小説を原作に脚本を書くことにした。しかし、ゲッベルスがメッツガーの脚本の草案を読み、それが彼の宣伝キャンペーンにとって反ユダヤ主義的要素が不十分であると判断した。ゲッベルスは脚本の欠陥を修正するために、脚本家としての経験がない劇作家のエーベルハルト・ヴォルフガング・メラーをメッツガーの補佐役に任命した。メラーの役割は、脚本がゲッベルのイデオロギー的な目的を確実に満たすようにすることだった。メラーは、ハウフが「ユダヤ人とポーランド人の解放」についてあまりにも感傷的であるとして脚本の原作からハウフの中編小説を放棄すると決定した。 その間、ブラウアーはキャストの募集に取り組んでいたが、なかなか成功しなかった。主役のヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーとして検討された俳優には、グスタフ・グリュントゲンス、ルネ・デルトゲン、ルドルフ・フェルナウ、リチャード・ハウスラー、ジークフリート・ブロイアー、ポール・ダルク、フェルディナンド・マリアンが候補に挙がっていた。グリュントゲンスはプロイセン州立劇場の館長としての責任を理由に辞任した。マリアンも辞退した。
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