ムーアパークのバトラー男爵(1666年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 14:01 UTC 版)
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初代公の長男トマス・バトラー(英語版)(1634年 – 1680年)は、1666年にイングランド貴族としてハートフォード州ムーアパークにおけるムーアパークのバトラー男爵 (Baron Butler of Moore Park, of Moore Park in the County of Hertford) に叙された。なお、彼は叙爵に先立つ1662年にアイルランド貴族院からの繰上勅書によって初代公の従属爵位の一つであるオソーリー伯爵 (Earl of Ossory) を継承している。 彼はその後の1680年に急逝したためオーモンド公爵位を継承できず、彼の長男ジェームズ(1665年 - 1745年)が2代男爵となった。2代男爵はさらに1688年にオーモンド公爵位やランソニーのバトラー男爵といった祖父の持つすべての爵位を併せて相続した。しかし彼はジャコバイト蜂起に参加し、反乱が鎮圧される方向に傾くとフランスへ国外逃亡した。そのため1715年にフランス亡命中のままホイッグ党諸卿(とりわけ急先鋒たるスタンホープ伯ジェームズ・スタノップ)から告発され、私権剥奪処分を受けた。 処分に基づいて上記の爵位はすべて没収された結果、ランソニーのバトラー男爵は廃絶した。ただし、2代男爵の死後の1791年に貴族院による判例変更がなされている。その趣旨は、1715年の私権剥奪が(グレートブリテン議会で議決されたものだったため)イングランドとスコットランドの爵位にしか効力を有さないという内容であった。そのためアイルランド貴族爵位であるオーモンド伯爵位とオソーリー伯爵位は親族のジョン・バトラー(第17代オーモンド伯)(英語版)(1740年 – 1795年)にその時点で継承された。一方でアイルランド貴族爵位のオーモンド公爵に関しては弟チャールズ(1671年 - 1758年)への継承が確定したが、決定時にはすでに死去していたため、あらためて公爵位は廃絶となった。 さらに時代が下った1871年に2代男爵の子孫である第7代クーパー伯爵フランシス・クーパー(1834年 - 1905年)は剥奪されたイングランドおよびスコットランド爵位のうち、女系継承が可能なムーアパークのバトラー男爵位とディンゴール卿位に対する爵位回復の請願を行った。その結果、貴族特権委員会(英語版)は両爵位の回復を認めた。ただしフランシスには男子がなかったため、同人の死をもってクーパー伯爵位は廃絶、姉妹の間で優劣がつかない男爵位は停止した。一方、ディンゴール卿に関しては1907年に遠縁の第9代ルーカス男爵オベロン・ハーバート(英語版)への継承が確定した。 この継承者不在の状態は2019年現在まで解除されておらず、依然として停止の状態が続いている。
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初代バトラー男爵(第6代オソーリー伯爵)トーマス・バトラー(英語版)(1634年 - 1680年) 第2代バトラー男爵(第2代オーモンド公爵・第7代オソーリー伯爵)ジェームズ・バトラー(1665年 - 1745年) 1715年に私権剥奪処分、全爵位褫奪。 第3代バトラー男爵(第7代クーパー伯爵)フランシス・トーマス・ド・グレイ・クーパー(1834年 - 1905年) (1871年にバトラー男爵位・ディンゴール卿位回復、1905年以降保持者不在。)
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