ミラボー伯爵との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)
「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「ミラボー伯爵との論争」の解説
18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった。 会社は資金集めのために株券を発行したが、初めのうちは中々買い手がおらず、額面の2000リーヴルを割り込む始末であったが、1785年になって人気が沸騰し、結局4000リーヴルの値を付けるまでになっていた。銀行家のクラヴィエルとパンショーはこれに目を付け、株価の下落を狙ってあれこれ仕掛けたが失敗し、大損してしまった。そのため、会社の信用を傷つけて株価の下落を謀ろうと考え、ミラボー伯爵をけしかけて、攻撃文書を書かせることにした。この目論みは見事に成功し、攻撃された水道会社の株価は半分近くまで下落した。ミラボー伯爵は、以前ボーマルシェに借金を申し込んで断られたことを根に持っていたようだ。 ボーマルシェもこれには黙っていなかったが、これまでとは違った反応を見せた。彼の公開した反論文書は、相手の非難より水道会社設立の意義やその業務の進行状況に多くを割いた内容のものであった。ミラボー伯爵へはまるで大人が子供をたしなめるかのような回答を向けており、それは攻撃というよりからかい程度のものであった。伯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった水道会社の件を忘れて、ボーマルシェへの人身攻撃に躍起になったが、ボーマルシェは相手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飽き飽きしていたのかもしれない。この2人の関係は1790年になって、伯爵からの和解の申し出によって修復されたが、この時のボーマルシェの態度をパリ市民たちは弱腰と考えたようで、後々この点につけ込まれることになる。 1786年12月、すでに同棲して12年以上になるマリー=テレーズと正式に結婚した。
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