マリポサ大隊と最初の観光客
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 19:45 UTC 版)
「ヨセミテ渓谷」の記事における「マリポサ大隊と最初の観光客」の解説
インディアン以外でヨセミテ渓谷を最初に見た者は、おそらく1833年のジョセフ・ウォーカー隊のメンバーであり、この隊が初めてシエラネバダ山脈を東から西に超えた。しかし、ヨセミテについて最初に文献に残したのはそれから20年近く後だった。1849年のカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、鉱山師とインディアンの間に紛争が起こり、カリフォルニア州はヨセミテ地域のインディアンに対して懲罰目的で志願兵によるマリポサ大隊を結成した。1851年、この大隊はジェイムズ・D・サベージ少佐が率いた。サベージはマーセド川沿いにあったその交易基地をアワーニーチーに襲撃されていた。この時と他の任務により、テナヤ酋長とアワーニーチーはサンホアキン・バレーの保留地で数か月を過ごすことになった。このバンドが翌年渓谷に戻ったが、鉱山師達と紛争が持ち上がった後でモノ湖パイユート族の中に隠れた。アワーニーチーの大半(テナヤ酋長も)は、馬を盗むことで恩をあだで返した後、パイユート族に渓谷に追い返され、殺された。 マリポサ大隊最初の遠征隊のメンバーがマーセド川上流で見られたことの噂を聞いてはいたが、1851年3月27日に、現在オールド・インスピレーション・ポイントと呼ばれる場所から見たものについて何の準備もしていなかった。ラファイエット・バネル博士は次のように記していた。 「 その景色の雄大さは谷に罹っていた靄によって和らげられてこそあった。 -- 蜘蛛の糸のように軽く -- 雲によって高い崖や山が一部隠れてはいた。見えるものが曖昧だとしても、私が見たときの畏敬の念を増し、見れば見るほど特別に高められた感情が私の全身を満たすように感じ、私の眼には感動の涙が出てきていた。 」 この集団はその夜渓谷底部で宿営し、バネル博士がこの地を「ヨセミティ」と呼ぶという提案に同意した。しかしこれはインディアンの名前だと誤って信じていたものだった。バネルは渓谷の壁の高さを過少に評価した人々の中でも最初の者だった。サンフランシスコの新聞が、崖の縁の高さが1,500フィート (450 m) と主張したバネルの証言をさらに下げるように要求し、既に半分以下になっていた数字をさらに下げて掲載した。 ジェイムズ・ハッチングスが1855年にヨセミテ渓谷への初の観光隊を編成し、画家のトマス・エアーズがヨセミテに関する初期の広告の大半を制作した。ハッチングスはヨセミテ渓谷に関する記事を制作し雑誌1冊を発行した。エアーズの非常に詳細で、ある意味で芸術的に誇張した作品と紀行文が全国に配布され、ニューヨーク市ではその絵の展覧会が開催された。 ハッチングスが組織した最初の観光隊の中で、ミルトン・マンとヒューストン・マンが渓谷への最初の有料道路を建設し、地域最初のホテルが建設されるとその他のトレイルの建設が続いた。渓谷の草原では果樹園が造られ、家畜が草を食んだので、その結果は原始生態系にとっては障害となった。
※この「マリポサ大隊と最初の観光客」の解説は、「ヨセミテ渓谷」の解説の一部です。
「マリポサ大隊と最初の観光客」を含む「ヨセミテ渓谷」の記事については、「ヨセミテ渓谷」の概要を参照ください。
- マリポサ大隊と最初の観光客のページへのリンク