マリとトンブクトゥとは? わかりやすく解説

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マリとトンブクトゥ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:48 UTC 版)

イブン・バットゥータ」の記事における「マリとトンブクトゥ」の解説

1351年秋にイブン・バットゥータフェズ出発し、現在ではサハラ砂漠北限となっている街、シジルマサ向かったこの街で彼はラクダを何頭か購入し4ヶ月過ごした1352年2月、彼はキャラバン伴って再び出発25日をかけてタガーザー(英語版)の塩原にたどり着く。この地域では建物はすべて塩のブロックでできている。ここではマッスーファ族(Masufa)の奴隷が塩を切り出しラクダ運び建物造る。タガーザーは交易要衝マリ産出される金に溢れていたが、イブン・バットゥータはあまり良い印象を持たなかった。ハエ悩まされしょっぱい記録している。 タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラー(Tasarahla、おそらくBir al-Ksaib)のオアシス向かった。そこに準備のために3日滞在するここからこの広大な砂漠縦断する旅で最後の、そして最も難し区間が始まる。ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタオアシスに向け出発、彼らはそこで調達して4日目地点でもどり本体合流するウアラタサハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこのころマリ帝国支配下入っていた。キャラバンシジルマサから1600キロ行程に2ヶ月費やしたここからイブン・バットゥータナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川沿って南西へと旅をつづけ、マリ帝国首都にたどり着く。彼は1341年より在位しているマンサ・スライマーン(英語版)に謁見するイブン・バットゥータ女奴隷、召使さらにはスルタン娘たちまでもが肌の一部露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしている。2月には首都離れ現地ムスリム商人とともにラクダトンブクトゥ訪れたトンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となるが、イブン・バットゥータ訪れたこのときはまだ小さな街だった。この旅でイブン・バットゥータ生まれて初めカバ目にするカバ地元のかこから怖れられていて、丈夫な綱が取り付けられ狩られる、と記録している。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟ニジェール川下りガオ訪れた当時ガオ重要な交易要衝であったガオひと月過ごした後、彼は大きなキャラバン参加してタカッダータケッダ)のオアシス目指した。砂漠越える旅の中で彼はモロッコスルタンアブー・イナーン・ファーリスからのメッセージ家に帰るようにとの命令受け取る。彼は1353年9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサ向けて出発した。そして1354年初旬モロッコ戻っている。 イブン・バットゥータのこのアフリカの旅の記録イスラム教西アフリカへと波及していく過程覗かせてくれる貴重な資料となっている。

※この「マリとトンブクトゥ」の解説は、「イブン・バットゥータ」の解説の一部です。
「マリとトンブクトゥ」を含む「イブン・バットゥータ」の記事については、「イブン・バットゥータ」の概要を参照ください。

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