マリの死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)
1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った。 療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシー(英語版)にあるサンセルモス(英語版)というサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった。 7月4日水曜日の夜明け前、マリはフランスで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された。長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられている。放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていなかった。マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいた。マリは長年の放射線被曝により様々な病気にかかり(白内障によってほぼ失明したことを含む)、ついには死に至ったが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかった。 彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている。マリが残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、直接閲覧するには防護服着用が必須で、通常はテープレコーダーでの閲覧しか認められていない。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、1991年に汚染除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射線が検知されるという。 60年後の1995年、夫妻の業績を称え、二人の墓はパリのパンテオンに移され、フランス史の偉人の一人に列された。マリは、パンテオンに祀られる初の女性である。
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