マイナー・レーベル群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 14:25 UTC 版)
「エディ・コクラン」の記事における「マイナー・レーベル群」の解説
当時西海岸の音楽産業はまだ新しく、戦後になり多様化するニーズに応えてるべくスペシャリティ、アラディン(R&B)、アボット、フォースター(C&W)など独立資本のレーベルが勃興、L.A.だけで300ものマイナー・レーベルがひしめきあっていた。 キャッシュ 黒人起業家ジョン・ドルフィンがL.A.ワッツ地区でレコードショップ、スタジオと共に経営するR&Bレーベル。店内ショウウィンドウから直接ラジオ放送を行うDJ「ハギー・ボーイ(Huggy Boy)」が名物だった。1955年11月ケープハートはドルフィンにヒルビリー・レコードの制作を持ちかける。「ドルフィンの名を作曲者としてクレジットする」というキツい条件で交渉成立、「ウィズ・コクラン・ブラザース」として2枚のシングルがリリースされた[#1,2]。この時点でブラザースはまだエコーとの契約が残っており、ドルフィンとケープハート、双方劣らぬしたたかさだった。 ゼファー アメリカン・ミュージック専属ライター、レイ・スタンレー所有のレーベル。コクラン・ブラザースに曲を提供する傍ら自己名義のシングルを制作した[#11,13]。リー・デンソンの「ニュー・シューズ」[#19]スタンレーの「オーバー・コークス」[#21]はスタンレーがそれぞれVik,Argoにマスターを売却したもの。 フリーダム 1958年9月、リバティは新人発掘を目的とした子会社レーベル「フリーダム(Freedom)」をスタートさせる。経営者ワロンカーは新人との契約や現場での指揮者としてケープハートとエディの二人を起用、「自分達の望むレコードを制作する」事が可能な限りが許された。9月25日ジョニー・バーネットの「アイム・レストレス」を皮切りにフォー・ドッズ、バリー・マーティンらのシングルをリリース、「ミー・アンド・ザ・ベア」[#34]ではジョニー・バーネットとエディの共演が実現している。 シルヴァー フリーダムが1959年末に終了するとエディとケープハートは出版社アメリカン・ミュージックが所有する「シルヴァー」(Silver)へのマスター制作を開始。ツアー同行が出来なくなったアマチュア時代からの相棒コニー・スミスに代わり新たにサポートバンドとなった「ケリー・フォー(Kelly Four)」[#40,43]。実質エディのレコードだったが契約の関係でケリー・フォー名義となった。
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