マイトナーとノーベル賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「マイトナーとノーベル賞」の解説
マイトナーは数度にわたりノーベル賞の候補にあげられた。たとえば1935年にはプランクの推薦でハーンと共同で、1936年にはラウエの推薦で単独で、それぞれ候補にあげられた。しかし結果としては、マイトナーは賞を獲得することはできなかった。一番の業績であった核分裂反応に関しても、受賞したのはハーン1人(1944年化学賞)で、マイトナーは受賞者から外された。ニールス・ボーアやオスカー・クラインはマイトナーを1945年から1948年までの物理学賞または化学賞に推薦し続けたが、それは実らなかった。 この選考に関しては、当時から議論の種となっていた。ハーンとシュトラスマンによる核分裂反応の実験時にマイトナーがその場にいなかったことなどを踏まえて、マイトナーは核分裂の発見に寄与しなかったとする否定的見解がある。果ては、マイトナーがいなくなったことでこの発見は成し遂げられた、ととらえられることさえあった。ハーン自身も後年に、もしマイトナーがその場にいたら、この実験には反対していただろうと述べており、自分たちの発見に関して述べる時にもマイトナーの貢献についてほとんど触れなかった。そのため、一時期マイトナーの業績は過小評価されていた。 1990年代になって、スウェーデン王立アカデミーはこの選考の資料を公開した。この資料によって選考の過程が明らかになった。それによると、1945年までは、放射性物質に関する研究は化学賞の対象領域となっていた。そのためもあってか、選考委員は核分裂反応の発見に関してはハーンとシュトラスマンの化学面での業績を高く評価した。そして、それに理論的な解釈を与えたマイトナーの貢献は軽視され、理論的な貢献はむしろボーアに帰せられるとした。さらに、1946年の選考に関しては、5人の選考委員のうちの3人がシーグバーンのグループであったことも影響しているという説もある。マイトナーはシーグバーンの研究所では孤立していた。さらに、マイトナーをノーベル賞に推薦したオスカー・クラインは、マイトナーを自分の研究所に招きたいと考えていた。これらのこともあって、シーグバーンは、マイトナーにノーベル賞を与えてしまうと、スウェーデンの原子核分野の予算をクラインに獲られるのではないかと考えた、とも推定されている。 ハーンはノーベル賞の賞金の一部をマイトナーに渡し、マイトナーはそれをアインシュタインが運営してた原子物理学者のための支援委員会へ寄付した。マイトナーは1946年のノーベル賞が与えられなかったとき、ハーンにあてて「私があなたのノーベル賞の僚友となる可能性は消えました。もしお聞きになりたいなら、その経緯について少々お話しできるのですけれど」と手紙を送った。そのことをマイトナーが知っていた経緯が何であったかは不明である。 なお、ノーベル賞こそ逃したマイトナーであるが、後年にそれ以上の名誉に与っている。没後の1997年に、109番元素の正式名称をマイトナーの名に由来するマイトネリウムとすることが決まったのであった。余談になるが、同じく1997年の新元素の命名の検討では、105番元素をハーンの名からハーニウム(元素記号Ha)と命名することも検討されていた。しかし結局、105番元素はドブニウムと命名された。一度元素名の由来として検討された人物名はその後の選考で用いてはならないという規則があるため、ハーンの名は(この規則がある限り)永遠に元素名にならないことが決まった。ノーベル賞の栄光はハーンにのみ輝いたが、新元素命名の名誉に関してはマイトナーとハーンはノーベル賞の時とは立場が入れ替わる格好となった。
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